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ヨルシカ世界における輪廻転生-ヨルシカ LIVE2024「前世」考察※ネタバレ有り

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昨日、YouTubeに公式で無料アップロードされている、ヨルシカが昨年秋に行ったライブツアー「前世」のライブ映像を見た。

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広告も入らないので没入して見れる(つまりは収益化してないということなのだが)。

ヨルシカがライブ映像をYouTubeで無料公開するのは昨年の「月と猫のダンス」に続き、2回目である。(ちなみにPrime Videoに入っていると「月光」も見れます。まだの方はぜひ!)

このライブはコンセプトライブとなっており、n-bunaさんが書いた小説を本人が朗読し、間に曲が挟まるという形式になっている。ここは前作「月と猫のダンス」と同じだ。

しかし、その内容があまりにも衝撃的すぎたのでこれを書いている。

以下はネタバレを含むので未視聴の方は読まないでください。

物語は二人の男女の会話を下に進んでいく。

二人はもともと付き合っていて同棲していたが、今は別れて別々に暮らしているらしい。

男のほうがある夢の話をする。

それは自分の前世の記憶だったというのだ。

ある時は、自分は花で、木で、虫で、魚で、鳥で、雲で、そして人間であったという。

ここで重要な場面が出てくる。

それは魚の時の記憶。

自分は海の中にいて、深海から頭上の月を見上げている。これは「ノーチラス」を想起させる描写だ。

ライブ「月光」の朗読でも、エイミーが海に身を投げたあと、海の中から月を見上げ、「ああ、これから自分は生まれ変わるんだ」と言う描写があった。

次に注目したいのは、鳥だった時の記憶。

男は鳥になって大空を飛び回り、海原に出て、そこに浮かぶ月を見る。その景色に見とれる。

月、といえば、やはり「盗作」の物語である。「盗作」ではベートーヴェンのピアノソナタ、月光ソナタが物語の鍵になる。

そして、大きく物語が動くのが、男が雨に濡れた女性を家に入れた時のこと。男は飾ってあった写真を見て、「懐かしいなあ。あのときは楽しかったよね」と言う。

二人は狂い咲きの桜を見に桜並木に行き、そこで季節外れの花見をするのである。

この記憶は、「春泥棒」を思い起こさせる。

「春泥棒」は春の桜の話ではあるが、記憶の話とは符合する点がある。

つまり、ここで疑問が生じてくる。この男は果たしてエイミーなのか? 「盗作」に出てくる先生なのか?

この二人はヨルシカ作品においてよく出てくる人物である。

ヨルシカ作品はエイミーとエルマの物語と「盗作」の物語、この2つの物語が基盤にある。(ちなみに、入手困難になっていた初回限定盤は今、通常販売されているので最近好きになった人も手にとってね。これはヨルシカファンにおける聖書なので)

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この男がエイミーなのだとしたら、女性はエルマだろうし、この男が先生なのだとしたら女性は奥さんということになる。果たしてどちらなのだろうか?と考えている中で物語はさらに核心に迫る。

男は自分は前世で人間だったことがある、と話す。

そして、部屋に散らばった写真を見て、「たぶんそこは北の国で、そうだ、デンマーク、フィンランド、ノルウェー……」。そこで数々の写真が映し出される。それはすべて「だから僕は音楽をやめた」についているエイミーの手紙についている写真ばかりだ。しかも、「だから僕は音楽をやめた」のジャケットもしっかし写っているのを確認した。

つまり、この男の前世はエイミーだったことがここで確定したのである。

前述した通り、ライブ「月光」の最後でエイミーは生まれ変わろうとしている。つまり、その続きがこの物語なのではないか?

いや、まさか、この男は「盗作」の先生で、その前世はエイミーだったのではないか?という仮説もここで生まれる。

ここですべての物語が一つの線でつながるわけである。

しかし、その興奮もつかの間、驚きの事実に我々は戦慄することになる。

男は言う。「僕は何を話しているんだろうね、犬相手に」

犬?!

そして女性が自分の姿を見ると、鏡に写っているのは小さな犬だった。

そう、女性は犬だったのだ。

二人が公園で散歩をしていると好奇の目で見られたのも納得である。彼は犬に向かって話していたのだから。

そして、ここで奇妙なセリフだった「リードはできないけれど」という言葉に合点がいく。

女性をリードすることはできないけれど、というきざな言い回しだったのではなく、ただ単に犬に首輪がついていなかったので、リードがつけられない、という意味だったのだ。なんという叙述トリック……。

二人はてっきり別れて離れて暮らしていると思っていたのだが、違うのだ。

女性は一度死んでいるのだ。そして、犬に生まれ変わって、この男のもとに会いに行っているのだ。

ここで一つの仮説が成立する。

「盗作」の先生は奥さんを病気でなくしている。

つまり、この男は先生で、この女性(犬)はその奥さんなのではないのか?

そして、先生の前世はエイミー、だとするとやはり、女性の前世はエルマということになるだろう。

なんということだろう。

ヨルシカの物語はすべて「生まれ変わり」という輪廻転生の中ですべてつながっていたのである。

そして、これは見終えたあとに気づいて戦慄したことなのだが、女性の生まれ変わりである犬の見た目が「春泥棒」に出てくる犬の見た目と全く同じなのである!

そして、よく見るとこの「春泥棒」のMVの犬は首輪がついているときと、ついていない時がある!

嘘だろ……、もしかしてそこまで計算してたのか……?

と思ったが、「春泥棒」のMVが公開されたのが4年前なので、さすがにそういうことはないだろうが、意識していることは間違いないだろう。

そして物語は、男と犬(女性)が二人で月を見るシーンで終わる。

女性(犬)には前世の記憶がある。あなたとこうしてよく月を見上げたことを覚えている。今すぐ、わたしはここにいるんだよ!と伝えたい。だけど、吠えることしかできない。

しかし、男は何かを感じたのか「一緒に住もうか」と言ってくれる。

こうして男と女性(犬)は再び出会い、結ばれることができたのである。

僕はその最後のシーンを見て泣きそうになった。

エイミーとエルマの別れ、先生と奥さんの別れ、この2つの別れを乗り越えてようやく、先生は奥さんと結ばれたのである。

しかし、先生はその犬が奥さんであることを知らない。犬になった奥さんだけがそのことを知っている。ここにもすれ違いがある。

先生は奥さんを病気でなくしてから、情熱というもの失った。そして、自分が破滅することによって作品を完成させようとした。その破滅に向かう道でしか喜びを掴めなかったからである。

しかし、奥さんは犬になって戻ってきたのである。そのことを知っていればどれほどの救いになったことか。奥さんだってそのことを伝えたかったはず。

エイミーとエルマもすれ違いによって離れ離れになってしまった。そして、エイミーは遠い異国の地で身を投げてしまった。

ヨルシカの物語はすれ違いの物語である。

あともう少し言葉が足りていれば、なにか違う結末があったかもしれない。だけど、そうはならない。

それは僕らも同じだ。

ささいな誤解で勝手に傷つき、離れていく。だけど、あのとき、相手のことをもっと理解していたら、違う行動を取っていれば、なにか変わったかもしれない。

人生なんてすれ違いの連続だ。その過程で僕たちは様々なものをなくしていく。

ヨルシカとは喪失の物語である。

すれ違って、大切なものをなくして、それでも生きていかなくちゃいけなくて、がむしゃらに生きようとした人間たちの物語。

それは、わたしたちに明日を生きる活力を与えてくれる。

最後に。

なぜ、ヨルシカがこのようにわざわざ円盤になっているライブ映像を無料公開するのか?という疑問に答えておこう。

何年か前のロッキング・オン・ジャパンのインタビューでn-bunaさんが、

「自分はもう老後は安泰くらいまでお金を稼いだので、あとは自由に音楽活動をする」

と言っていた。

もともとヨルシカはn-bunaさんが自分は音楽でしか食っていけない人間だから、ちゃんと音楽活動をしよう、という思いで結成したらしい。

しかし、ある程度、商業的にも成功して、生活も安定したので、もう生産度外視でやっていく、という決意表明だった。

事実、それ以降、CDという物理媒体でのリリースはしなくなった。「幻燈」は音楽画集とサブスク・配信のみで、CDリリースはされなかった。

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しかも、「幻燈」以降、コンセプトアルバムという形態にもこだわらなくなり、続々とシングルをリリースしているが、「だから僕は音楽をやめた」「エルマ」や「盗作」のような物語のある作品ではなくなった。

しかし、近年のヨルシカ作品はむしろ、n-bunaさんの創作意欲は爆発しており、その詩的な表現に更に磨きがかかっている。コンセプトを撤廃したことにより、より自由に創作できるようになったのであろう。

新作「修羅」は、宮沢賢治の「春と修羅」をベースにしつつもドラマ主題歌としても完成されており、すっかりタイアップメーカーとなっている。しかし、そこで表現の軸がブレないのがヨルシカだ。

ライブの無料公開は自分たちの創作物をより多くの人に届けたいという思いの一環でやっていることであろう。ファンの人はきちんと円盤を買ってくれるだろうし、もはや円盤はファングッズの一つとなった今、そこまでセールスが振るわなくてもコアファンの売上だけでやっていける。だからこその無料公開なのである。

ぜひ、この素晴らしい物語体験を一人でも多くの人に体感してもらいたい。

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