前回、自分の推し語りをしたのだが、花譜ちゃんとすいちゃんのヒストリーを語るだけで文字数的にいっぱいになってしまったので本当に書きたいことがかけなかった。
今、なぜ、VTuberという存在がこうも世間を賑わせているのか?
オタク文化史という観点から見ていこうと思う。
まず、僕らオタクというのは基本的に3次元(リアルな人物)にそれほど興味がない。
魅力を感じないわけではないが、普段から2次元(イラストやCG)にふれていると、自分の理想の異性という形が2次元に固定されてしまって3次元に興味を失ってしまうのだ。
これは自分の中のイデア、つまり理想が過度に抽象化された状態であると言えるだろう。
2次元のキャラはそもそもが誰かの理想像としてはじめから創造されているのだから、それに心惹かれるのは当然のことである。
しかし、ここで一つの問題が生じてくる。
2次元のキャラはこの世界には存在しない。
漫画のキャラクターは漫画の世界にしかいないし、アニメのキャラクターもそのアニメの世界にしか存在しない。
困ったオタクたちはそのキャラの「中の人」、つまりそのキャラの声を担当している声優に救いを求めた。
声優さんだったらリアルに会うことができる。ライブに行けば、そのキャラの声で歌ってくれるし、そのキャラの声で愛を囁いてくれるかもしれない。
ところが、声優=そのキャラではないのだ。
当たり前だが声優はそのキャラの見た目をしていないし、場合によってはコスプレなどをして擬似的にキャラを体験することはできるかもしれないが、声優さんはそのキャラとは別の、一人の人間である。
ここがオタクにとっての一つのパラドックスというか、解決することのない問題だったのである。
しかし、VTuberはどうだろう?
VTuberは基本的に2次元のキャラクターである。イラストであり、CGであり、そして一つの人格を持ったキャラクターである。
しかし、VTuberはわたしたちオタクと配信を通じてコミュニケーションが取れる。しかも、そのキャラのままで。
オタクたちはコメントを通じてキャラクターに話しかけることができるし、VTuber側も常にコメントをウォッチしているので、リアルタイムで会話することができる。
また、YouTubeにはスパーチャット(通称スパチャ)という投げ銭システムがある。視聴者が任意の金額で推しにお金とメッセージを送ることができるのだ。スパチャは確実に目に留まるし、配信者によっては配信の最後に、ひとつひとつ、届いたスパチャに対して、名前を呼び、コメントに対する返事をし、感謝を伝えてくれる。より、キャラクターとの距離が縮まるのである。これは、アイドルの握手会やチェキ会と同じような文化と言えるかもしれない。
VTuberはリアルのライブを開催することもある。つまり、実際に会いに行けるのだ。
詳しくない方に向けて説明すると、VTuberのライブはまず、ステージ中央に大きなモニターやスクリーンが貼られており、そこにVTuberの姿が投影されるようになっている。
「けっきょくスクリーン越しじゃん!」という人がいるかも知れないが、このライブ手法は古くは初音ミクのライブから始まっているもので、もう15年以上の歴史がある。
しかも、最近はモーションキャプチャと言って、スクリーンの裏にいるVTuberの動きがアバターに投影される仕掛けとなっている。
つまり、スクリーンの裏で推しは歌唱し、ダンスしているのである。これは、ひとつのパフォーマンスの形である。
しかも、もちろん、会場の音声はVTuber側に届いているのでコール&レスポンスをしたり、ファンサをしてくれることもある。
このようにVTuberのライブとは双方向性のコミュニケーションの場であり、唯一、リアルな世界でVTuberとコミュニケーションができる貴重な体験なのだ。
さて、ここまで来て、わたしはVTuber界の鬼門に触れたいと思う。
それは「VTuberはこの世界に存在するのか?」という問いである。
これはおそらく一人ひとり回答が異なってくるかもしれない。あくまでわたしの一個人の見解として聞いてもらいたい。
VTuberとはイラストであり、CGである。だから、この現実の3次元の世界には存在しない。
だが、見た目は違ったとしても、VTuberのいわゆる「中の人」はこの世界に存在する。
ここで出てくるのが「中の人」論争である。
VTuberの中の人=VTuberそのものであるのだろうか?という問いである。
わたしは一つの解答を提示したいと思う。
前の記事で花譜ちゃんが自分のリアルな身体でパフォーマンスする「廻花」というプロジェクトについて解説した。
花譜ちゃん、および廻花ちゃんのプロデューサーであるPIEDPIPER氏は廻花ちゃんのことを「花譜のオリジン」という言い方で説明している。
この「オリジン」という言葉はどうやら細田守監督作品「竜とそばかすの姫」からの引用であるらしい。
「竜とそばかすの姫」もVTuberの話であり、物語のクライマックスで主人公のベルがリアルな身体を晒し、これが「オリジン」である、という言及をしているのである。
わたしがここで言いたいのはVTuberの見た目はしていないが、その「オリジン」は確かにこの世界に存在していて、今日も世界の何処かでわたしたちと同じように生活している、ということである。
VTuberというのは演じられるキャラクターではない。
むしろ、演じていないからこそ、ゲームでミスをしたときの反応に人間味を感じたり、ホラーゲームでガチの絶叫を聞いたときに親しみを感じたりするのである。
わたしはVTuberの推しができてからアイドルを推す人の気持ちがわかるようになった。
それまでアイドルに興味を持ったことはなかったのだが、推しのグッズを買ったり、配信を見ているうちに、「ドルオタってこういう気持ちなのかもな」という気持ちが芽生えた。
朝、目覚める。きっとこの世界のどこかで推しは今日も元気に生きていて、これから起きるのか、これから寝るのかはわからないが、その存在を感じる。それだけで一日を頑張れる気持ちになれる。配信がある時はがぜんやる気が起きる。
これまでオタクたちはアニメのキャラや漫画のキャラに恋をしてきた。
だが、それは一方的な「好き」でしかなかった。
しかし、VTuberはわたしたちに画面越しに話しかけてくれるし、ときどきリプを送るといいねやリプが返ってくることがある。
つまり、VTuberとは新しいアイドルの形と言えることができるのではないだろうか?
最近は小学生もVTuberにハマる時代だ。
あなたも自分だけの推しを見つけてみてはいかがだろうか?
きっと生活に彩りが生まれることだろう。

