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藤井風のMVに潜む哲学性

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藤井風のMVが次々と公開されている。そしてその完成度の高い、メッセージ性の強いMVが話題を呼び、加速度的に再生数は増えている。このMVと一緒に見てほしいのが、本人による解説動画。

この曲は一聴すると歌詞が岡山弁だったり、韻を踏んでいることによって少しだけイロモノとして聞いてしまう人もいると思う。しかし、この動画で言及されているように、「何なんw」という曲は、彼自身の言葉で言うならその人に潜む「ハイヤーセルフ」なるものの存在を歌った曲なのだという。そのハイヤーセルフとはアイデンティティであったり、自己顕示欲と言い換えることもできる。「肥溜めへとダイブ」という歌詞があるが、これがそのハイヤーセルフへの言及だと思う。時として人は理解不能な行動をとることがある。感情が爆発したり、理性が効かなくなってとにかく目立ちたいことをしたいと思ったりする。要するにこれがハイヤーセルフであり、それに対して彼は「何なんw」と言っているわけである。

そしてその表現として、「何なんw」のMVではエンジェル役として黒人のダンサーがコンテンポラリーダンスで藤井風の感情を表現している。実に見事なアイディアだと思う。そのハイヤーセルフ、人間の理解不能な衝動をこのダンサーが表現しているわけだ。映像としての完成度、メッセージ性、アイディア、どれをとっても一流だと思う。

 

そして、もう一つの曲、「もうええわ」。これもなんとまぁ、人を食ったようなタイトルだが、音楽性は本物。そして、こちらも解説動画が上がっている。

藤井風は「死すことによって人は生死という束縛から自由になれる」という言葉を引用しているが、それを表現する手法として、浮浪者になりきる、という方法をとった。ゴミ捨て場で歌うシーンはなんとも哀愁がある。何に対して「もうええわ」と言いたいのかというと、それはこの世界のすべて、ということになるだろう。だって、藤井風は自由を歌いたかったのだから。身近らを縛るすべてに対して自由になりたい。その結果、この曲は浮浪者として始まって浮浪者として終わる。そしてそれはある種の解放であり、自由なのだ。このエンディングはバッドエンディングではなくハピーエンドなのだと言う。浮浪者というのは彼にとって自由の象徴なのだ。人は生きている限り様々な束縛を受ける。仕事、友人関係、恋愛、すべてが自分を社会へと同化させるための道具に過ぎない。そうやってある種、人を洗脳して社会は成り立っている。それに対して彼は意義を唱えたのだ。ある種、ペシミスト的な発想だが、真実も含まれていると思える。そして、これは「もうええわ」という曲の持つ思想性を高らかに訴えうるメッセージだろう。タイトルに騙されてはいけない。

 

藤井風の音楽は様々なジャンルがごった煮になっているし、それが新世代のポップスとして鳴っていることが実に頼もしい。これからのJ-POPをけん引するにふさわしく、そしてそこには一人の人間を構築する確かな哲学性が見え隠れしている。しかし、それをひけらかすことはせず、あくまでポップソングとして鳴らそうとしていることに大きな意義があるだろう。小難しい歌なんて誰も聞かない。「何なんw」「もうええわ」これくらいざっくりしてたほうがとっつきやすく、中を開けてみると実は深遠な哲学がのぞいていて、気づいた時にはとりこになってしまうのだ。

2020年、間違いなく藤井風はJ-POPの渦の中心にいるだろう。聞き逃してはならない。