遅ればせながら先日、今話題の「鬼滅の刃」のアニメ版を全話視聴した。ここまで引き込まれ、一気見したくなるアニメはなかなかない。では、鬼滅の刃のどこがすごいのか?検証してみたいと思う。
まず、あらすじから。主人公、竈門炭次郎は家業である炭を売って、多くの兄弟とともに平和な日常を過ごしていた。ある日、町からの帰りが遅くなり、すっかり日が暮れてしまったころ、今夜は鬼が出るから家に戻るのはやめなさいと言われ、親戚の家に泊まる。そして、悲劇は起きた。翌日、家に戻ると、そこは血だまりの惨状だった。かろうじて生きていたのは妹の禰豆子だけで、彼女は鬼に変貌してしまっていた。炭次郎は鬼なった禰豆子を人間に戻す方法を探すため、そして炭次郎の家を襲った張本人である鬼舞辻無惨を倒すべく、鬼を討伐する専門部隊である鬼滅隊に志願する。
この物語はとにかく主人公を追い込む。家族を惨殺され、最愛の妹も鬼に変えられ、それでもなお、戦えと追い込む。この残酷な設定や残虐な描写からは「進撃の巨人」からの影響が強くうかがえる。今の時代は暗黒の時代だ。だからこそ、こういった暗い設定、報われない過去と消えない傷を抱えた主人公に共感する人が多い。しかし、この鬼滅の刃の面白いところは炭次郎の性格にある。彼はとてもやさしい。そしてそのやさしさは鬼にも報われる。鬼はすべて鬼舞辻の能力によって人から鬼に変えられたのである。だから、たとえ、その鬼がどれほどの人を食らっていようが、彼は鬼になって人を食らわなければならなかった鬼たちの境遇を憂うのである。彼は鬼にまで憐憫と同情を抱く。物語の中で先輩から「あなたなら鬼と共存できる社会をつくれるかもしれませんね」と言われる場面もある。つまり、鬼滅の刃は単純な復讐譚ではないのだ。炭次郎が恨むのは家族を殺し、人を鬼に変えた鬼舞辻のみである。鬼に対して復讐心を抱いているのではない。彼は明確に鬼舞辻を憎んでいるのであり、また、彼の最終目的は鬼舞辻を倒すことではなく、妹の禰豆子を人間に戻すことである。もし、鬼舞辻が禰豆子を人間に戻すことを交換条件にしたら見逃すかもしれない。彼は結果的に鬼舞辻を倒さなければならないが、それはあくまで禰豆子を人間に戻す手段だ。復讐がメインテーゼでない、そこが本作の特徴だ。
つまり、この作品は10年代の「進撃の巨人」「東京喰種」の文脈にあるのだが、その目的は最初から鬼との融和に視線が注がれている。そこがその二作とは違うところだ。進撃の巨人も東京喰種も戦いの中で融和の方法を探していくが、鬼滅の刃は最初から融和路線を言っている。残虐な世界でも彼の心は決して折れず、汚れず、無垢で優しいままだ。そこが救いになっているのである。
そして、この物語のテーゼは「どれだけ残酷な仕打ちにあおうと、心をくじかれようと、それに立ち向かっていく覚悟の強さ、逞しさ、美しさ」を描くものである。炭次郎はもともと才覚に恵まれたほうではなかった。しかし、厳しい訓練を堪え、その先に勝利をつかむ。強大な敵を前にしても臆さず、まっすぐぶつかっていく。そして、決してその心は折れない。その強さ。それこそが、この作品が週刊少年ジャンプ作品であることの証明だ。「進撃の巨人」も「東京喰種」も週刊少年ジャンプではなかった。時代が少年ジャンプを必要としていなかった感じがある。しかし、この作品は10年代の文脈に沿いながらも、危機に直面しながらもはいつくばって勝利をつかむ、その強さが実に少年ジャンプ的に描かれていくのである。
つまり、鬼滅の刃は現代的でありながらも、少年ジャンプが描いてきた強さの延長線上にあり、伝統と革新をともに抱く尖鋭的な作品である、ということである。
ほかにも登場人物が魅力的であり、メインキャラ以外のキャラもそれぞれに個性がたっていて、キャラものとしても楽しめる側面がある。
バトルの気迫ある描写も見どころだ。アニメに関してはさすがはufotableとしか言いようがない。
僕は今年の初めに20年代は穏やかな年代になる、と言った。しかし、それは訂正しなければならないかもしれない。今もこのように世界と戦う覚悟を示す作品があるのだから。これは明確に作者が伝えたいメッセージなのだろう。あきらめるな。覚悟を示せ。20年代は波乱の幕開けとなった。これから世界がどうなっていくのか、誰もわからない。みんな不安だからこそ、このような心を強く持つことの大切さを説く作品が読まれているのだろう。