さて、栄光の第一位だ。
このアルバムはザ・ビートルズの「サージェントペパーズロンリーハーツクラブバンド」やザ・フーのロックオペラ「トミー」からはじまるすべてのコンセプトアルバムの頂点に君臨する作品だ。これを超えるコンセプトアルバムはもう出てこない。もし作れるとしたら世界でもそれはヨルシカのみだ。
このアルバムは「だから僕は音楽をやめた」と「エルマ」が一続きの物語として成立している。そして初回限定盤には手紙と手帳という、二人の主人公が書き記した日記が封入されていて、そこで物語が展開される。
「だから僕は音楽をやめた」はエイミーという青年が音楽を志して都会へ行ったものの、成功できず、音楽をやめる決意をし、友人であるエルマに手紙を書く。
そして、「エルマ」はエイミーからもらった手紙を読んだエルマがエイミーに影響され、作った音楽、というように明確なストーリーがそこに存在する。
エイミーとエルマの存在感は絶大だ。歌詞がセンシティブに彼らの苦悩を描き出す。そしてそれらは現代の私たちの傷跡をぴたりと言い当てたもので、虚無感に支配され、それでも自分の目指したいものを貫きたい、しかし、それがどうしてもできない、そんな苦悩に満ちた歌詞だ。
僕は今回のレビューにあたって、エイミーとエルマの関係性について記したいと思う。
エイミーとエルマは同郷で、ある日エルマが偶然入った喫茶店で必死に歌詞を書くエイミーと出会い、一緒に音楽を始める。しかし、エイミーはエルマの才能に嫉妬してしまう。自分より遅く始めたのに、自分よりもうまい。そのことに絶望し、彼はエルマのもとを離れ、しばらく音楽活動に専念するが、結局、音楽をやめてしまう。「だから僕は音楽をやめた」では、音楽をあきらめたことをすべてエルマのせいにしてしまう。君が現れなければ音楽を続けられたのに、君の音楽がなければまだ歌えたのに、そんな心情が見て取れる。このアルバムは実は時系列が逆で最後に「だから僕は音楽をやめた」が入っているのだが、インストの日付を見ると、二曲目の「藍二乗」が最後の曲だとわかる。音楽をやめた後、エイミーはバイトをしながら詩を書いたり小説を書くが、いつも書くのはエルマのことだ。それだけ彼にとってエルマは大切で、そして憎むべき対象だった。エルマのことしか書く気がしなかった。そして、最後、「藍二乗」で彼はこう言う。
「藍二乗」
”エルマ、君なんだよ 君だけが僕の音楽なんだ”
そして、エイミーの物語はここで終わる。
続きはエルマが記している。
エイミーの実家にある日突然、木箱が届く。エイミーがいなくなってしばらくたった後だった。そこには膨大な手紙と写真が収められていた。(これは「だから僕は音楽をやめた」の初回限定版で再現されている。届いたのが木箱の形をした大きな箱で、中を開くと手紙がいっぱい詰まっていて、本当にエルマの気持ちになれた)。彼は「藍二乗」のあと、昔住んでいた北欧の町をめぐる旅に出ていた。そしてエルマはそこに彼がいるかもしれないと、写真の場所を巡る旅に出る。それはまさに”巡礼”なのだ。
しかし、エルマはエイミーが突然去ってしまったこと、そして、音楽をやめたことを自分のせいにされたことにとても傷つき、怒ってもいた。やり場のない怒りの感情は「神様のダンス」によく表れているし、「心に穴が空いた」とも歌っている。
エルマはその旅の模様を日記に記す。エイミーはエルマにとって神様のような人だった。自分に音楽を教えてくれた人。自分を変えてくれた人。だけど、その人はもういない。その人の影だけをこうして旅して追っている。エルマは自分はエイミーを模倣したに過ぎないと歌う。だから、エルマの一人称は女性であるにも関わらす”僕”だ。それはエイミーになりたかったから。だから、自分の歌はエイミーの歌にはかなわないし、私の歌は偽物に過ぎないのだから、もう一度会って、説得したい。そんな気持ちもあったのだろう。
エイミーとエルマの関係性。これが実に美しい。”恋”なんて単純な言葉では言い表せない。そこには羨望も嫉妬も憎悪も友情も愛情も慈しみも愛おしさも尊敬も崇拝も存在している。とても一言では言いあらわせない。
そして、エルマは「心に穴が空いた」でこう歌う。
“今ならわかるよ 君だけが僕の音楽なんだよ、エイミー”
これは「藍二乗」と同じことを歌っている。二人とも同じ感情を持っていた。
しかし、「ノーチラス」で衝撃の事実が明らかになる。それはどうか、MVで確認していただきたい。警告しておくが、誰もいない場所で見るように。きっと泣き崩れてしまうから。
たぶんもう入手できないと思うが、特典についてきた手紙と日記をもってしてこの物語は完結する。そしてその筆致のなんたる鋭いことか。もはやこれは小説でしかない。そしてそこに音楽が入ってくるのだから、これはもはやオペラに近い。ザ・フーが目指したロックオペラ。それがここ極東の地で最高の形で結実した。
これよりすばらしいコンセプトアルバムはもう、ヨルシカにしか作れない。今後、こういったストーリー性の強いコンセプトアルバムが増えるだろう。思えばカゲロウプロジェクトもその一つだった。しかし、ここまで芸術的な完成度と音楽的な完成度と商業的な成功を成し遂げたものは今まで一切存在しなかった。今後、このアルバムは一種の特異点となるだろう。ここからBUMPのようなシングルをどんどんリリースしていくシングルコレクション派とサカナクションやヨルシカのようなコンセプトアルバム派が分裂し、アルバムは二極化していく。そして、もちろん、この作品も模倣品も増えるだろう。しかし、それは模倣でしかない。本物はヨルシカにしかつくれない。真似をしようとしている時点で原典を超えようなどとは思うな。
ストリーミング世代はアルバムという感覚が薄い。みんなプレイリストで聴くからだ。自分でプレイリストを作る時点でアルバムは価値をなくしてしまう。それを知ったうえで、アルバムを一つの作品として昇華させる行為、それは原点に還るということだ。もう一度LPの時代へ。しかし、この作品は広く若い世代に波及した。それはこの作品のパワーがそうさせたのだろうし、ストーリーがあるにもかかわらずメロディとして完成されたものを作るという、コンポーザーのn-bunaさんの腐心によるものだ。
そう、まだアルバムは死なない。これからもアルバムは一人のアーティストにとって大きな意味を持ち続けるだろう。1年や2年、必死にスタジオにこもって作ったものなのだ。そしてそのアルバムを評価する姿勢にこそ、音楽への誠意が表れるというものだろう。このアーティストはこのアルバムを通してなにを伝えたいのか。いつも聞き流している曲を、作業の手を止めて真剣に聴いてみてほしい。きっと大きな発見があるはずだ。
もう一度、アルバムをデッキに入れる時のワクワク感を思い出させてくれたヨルシカに僕は感謝を伝えたい。こんな素晴らしい作品をつくってくれてありがとう。確かに受け取った。これからもアルバムは価値あるもので、音楽は聞き流すものではなく、生活に密着した、確かな重みをもったものであり続けるだろう。そう思えたことがただただうれしい。20年代がワクワクする。