先日、親友と議論になった。もちろん話題は先日投稿した「Dawn」のことだ。
彼はこの曲が気に入らなかったそうだ。理由はいくつもある。
まず、音が過剰でボーカルが聴こえない。
二つ、メッセージが重すぎて聴きたくない。
三つ、この曲は強制的にリスナーに正座させようとしている。
いろいろ議論は白熱したが結局はすべて納得した。
僕はこれをポップだと思って作った。このメロディはポップだと思った。でもそこに過剰に音を乗せすぎてしまった。技術的にすごいのはわかる。だけど悪く言えば技術だけで心に響かない。つまり、まったくポップではない。
ちなみに、このインスト版を今日、作ってみた。
するとどうだろうか。ABメロはもうこれで完成されていてメロディを入れる余地がなかった。結局、メロディはサビだけになった。でも、これで完結しているのである。むしろサビのメロディも邪魔なくらい。つまり、僕がやっていることには乖離が生じていることになる。
僕は正直に言えばアレンジにボーカルを乗せればなんでも曲になると思っていた。でもそんなはずはない。ボーカル曲にはボーカル曲の押し引きがあるはずだ。
でも、僕はこの曲のメロディはやはりポップだと思う。メッセージ性が強いのは個性だし、そんな曲はごまんとある。ただその親友には届かなかっただけだ。
だから、僕はこのメロディも歌詞も捨てない。前に発表している「disabled novel」も「WOR(L)DS」もそうだ。決定的にアレンジがダメなだけで、曲はいい。誰かには届くはずだと信じている。
そもそもポップな曲とは何なのかという話になったのだが、僕と親友の間には大きな乖離があった。親友は「ポップ」のことを「ポピュラーミュージック」として語った。しかし、僕が言っているのは「ポップカルチャー」のことである。
ポップカルチャーとは何か?
それはその時代の最先端のファッションや音楽や時代の雰囲気全体を指すものである。60年代にはそれがヒッピーカルチャーとサイケで、70年代にはパンク、ファンク、R&B、80年代はマイケル・ジャクソン、メタル、90年代はグランジ、UKロック、ゼロ年代にはディーバブームと70年代ネオソウルの復活、10年代にはネットミュージックとEDM全盛、15年からはブラックライブズマターと環境活動運動、ビリー・アイリッシュと、こうなる。これらはすべて音楽のことを語っているようだが、音楽=ファッションであり、その人のアイデンティティであり、個性だ。80年代に松田聖子と中森明菜とのし烈な争いがあったのと同じように今は櫻坂46とNiziUと言えばわかるだろうか。
音楽とはムーブメントである。そして、それは常に時代をリードする天才によって書き換えられてきた。真にポップなものとは何か。それは今、一番新しくて、”これから”はやりそうなものである。決して”すでに”流行っているものはその時点でもうすでにポップではなく、”ジャンル”という型にくくられている。
僕はEDMショックと呼んでいるのだが、2010年代から流行りだした白人のユーロビートは世界中を席巻し、当時19歳だったAviciiを億万長者番付にランクインさせ、彼はLAに16億の豪邸を立てた。
そして、EDMムーブメントは彼の死をもって終焉を迎える。なぜ、彼は死に追いやられたのか。それは長期にわたるワールドツアーとそのあとのアフターパーティーによる肝臓の悪化であり、彼はツアーをあきらめざるを得なくなった。それでも彼は音楽を創り続けた。しかし、もうすでにその時点でEDMはEDM好きしか聞かない音楽であり、それ以上彼を満足させることはなかった。そして、自ら命を絶った。
僕は、AviciiはEDMというムーブメントに食らいつくされたのだと思う。あるいはリスナーが、彼を取り巻く環境が(もちろんドラック付きで)彼を殺してしまった。悲しい話である。
カルチャーは人を殺す。カート・コバーンも死んだ。尾崎豊も死んだ。太宰治も死んだ。芥川も死んだ。ジミヘンも死んだ。ジョン・レノンは殺された。みんなカルチャーに食われたのである。
では、どうすればよかったのか? どうしたらカルチャーに食われずに生き残れるのか。
カリヴン・ハリスもEDMプロデューサーで、今も現役だ。Zeddはグラミーの常連で毎年、出席している。しかし、彼らはもうEDMはやっていない。彼らがやっているのはR&Bやファンクだ。彼らはカルチャーにのまれず、今、黒人の音楽が注目され始めているという理由で、簡単にEDMをやめた。その柔軟性だ。
硬球は当たれば生死にかかわる。だけどバレーボールは当たっても痛くない。跳ね返ってくる。その柔らかさが僕にない。
そうだ、時代に取り残されるのは僕は嫌だ。常にポップを更新し続けたい。そのために挑戦し続けたい。
音楽とはテクノロジーの進化と同義だ。かつてピアノは存在しなかった。バッハはパイプオルガンとチェンバロでソナタを書いた。モーツァルトの時代になってフォルテピアノになって4オクターブくらいになった。ベートーヴェンの時代になってようやく7オクターブ半の最先端のピアノができた。ショパンは完成された8オクターブの現在と同じグランドピアノで数々の名曲を書いた。そして、1966年に世界初の新たなシンセサイザーという楽器ができた。YMOの時代である。そこからテクノが生まれた。ハウスが生まれ、クラブカルチャーが生まれた。やがて、サンプラーが出てきてHip-Hopが始まる。2007年に初音ミクが誕生し、ボカロカルチャーが隆盛を極める。機械が歌う時代。そして、ついにAIシンガーが登場しようとしている。
その時代のテクノロジーによって音楽は支えられている。僕だってボカロを使って曲を作っているし、いずれはAIシンガーに切り替えたい。ミックスだってもう一部AIを使っている。そのうちAIが曲を作るだろう。そしてAIは永遠に作り続ける。疲れないからだ。その面で、人はAIに勝てない。じゃあ、どこで勝負するか?
AIは新しい音楽は作れない。アルゴリズムが機械学習である限り、まるでビートルズが作ってジョンレノンが歌っているような曲は作れるが、それはビートルズではない。模倣品だ。
本物の音楽とは何か? この世に音楽の真理があるとするならばそれは何か? 僕はそれは第九だと思う。あの曲は誰がどう聞いても感動できる。アフリカの原住民ですら感動できるはずだ。なぜなら、最終楽章は合唱、つまり、声で作られているのだから。ヴァイオリンという楽器を知らなくても、声という楽器なら知っている。だったらその情熱は通じるはずだ。真の音楽は全地球人を一人漏らさず感動させる。それが音楽の真理だと僕は思う。
そして、それこそが本物のポップで、AIでは絶対に作りえないものだ。
ポップとは何か。それが最新のテクノロジーを使って作られていて、時代の少しだけ先を歩んでいて、そしてわかりやすい。
今の時代にシンセを使わないのはナンセンスだと思う。ギターロックはもうみんなやめた。8ビートなんてもうみんな聞き飽きてる。コアな人は聴くだろうが、それはポップではない。
今、現在のポップとは何か。それは、米津玄師、YOASOBI、ヨルシカ、ずっと真夜中でいいのに。だと思う。そして、彼らには共通項がある。すべてネットミュージック発信だ。そして、すべてにおいてボカロPが活躍している。
今一番、新しい、刺激的な音楽とは何か。それはネットの中にしかない。YouTubeに大量にあがっている同じ曲のカバー。それらはほとんどこの4組だろう。そして、それは無料で聴ける。お金を払わなくていい。でも投げ銭で払うこともできる。自由だ。
CDなんか誰ももう買わない。あっても邪魔なだけだ。所有欲を満たしたいならダウンロードすればいい。
今のポップミュージック、それはネットミュージックであり、ボカロカルチャーを礎にしたものだ(あくまでもそのものではない)。だから僕は初音ミクを使う。AIシンガーを使う。そして、わかりやすいけど、少し刺激的なスパイスをかける。それが多すぎても少なすぎてもだめだ。
音楽はすべてバランスである。新しさと懐かしさ。刺激的で普遍的。わかりそうでわからない。ビートも、音量も、配置も、エフェクトも、すべてバランス。
そうだ、僕の曲はバランスが悪い。ポップソングをつくろうと言ってオーケストレーションを始める。テクノをやろうとしてそこにボーカルをいれてしまう。僕は極端なのだ。
そして、それはどうしたら学べるか。
その結論は同じだ。
人と関われ。
普通の人の考えていることを想像しろ。
自分が聴きたくない音楽を創るな。
耳障りだけがいい音楽も創るな。
そこにこそ、魂は宿る。