最近、ブログを連続で公開しているが、これは自分の思考を整理するためだ。自分が思ったものがポップとして認められなかった、じゃあ、どうするのか。それを「ポップカルチャー」と「YOASOBI」から考察していたのだ。
結論から言う。僕はどうやったって”ポップにはなれない”。それは鶏が空を飛ぼうとするのと同じことだと僕は考えている。
まず一つ。僕は精神障害者だ。普通の人の考え方がわからない。親友と話した時も「tokihaくんはよく思考が飛躍するよね」と言われた。それは自覚している。しかし、これはもう自分の性格というか、自分の一部なのだ。それを曲げて、筋道立ててわかりやすく説明することはできない。このブログを読んでいる方はそのことをよくわかっているだろう。でも、これは逆に言えば強みなのだ。些細なことが大きな概念に変わっていくダイナミクス。思考が飛躍しながらも最終的にわかりやすい着地点にだどりつく、文章の熱量と速度とエネルギー。そういうものをそぎ落としてまで僕は音楽を創りたくない。
僕は基本的にマイノリティの人間だと思う。その人がどうあがいてもマジョリティに加われることはない。
二つ目。僕の強みはメッセージ性の強い歌詞だと思っている。僕は常々不思議なのだが、日本でアーティストが政治発言するとすぐにバッシングされる。あれはなんなんだろう。洋楽では政治発言はごくごく普通のことだ。今のポップアーティストは当然のことのように人種差別問題やジェンダーの問題、環境問題に言及する必要があるし、それこそがカルチャーの役目だと思う。パンクが英国政府への反政府デモだったように、ジャズが黒人の民権運動の一つだったように、音楽はカルチャーで、メッセージで、世の人の代弁者であるべきだと思う。「disabled novel」も「WOR(L)DS」も今回の「Dawn」も一貫した文体と情景があって、僕は気に入っている。特に「WOR(L)DS」と「Dawn」は社会的な意味合いが大きい。これはもちろん狙ったことだ。
コロナ禍によってつくられた歌はたくさんある。星野源の「うちで踊ろう」、RADWIMPS「新世界」「ココロノナカ」など。RADの「新世界」はとてつもなくダークな曲だが、ほかの二曲は基本的にはポップで明るく前向きになれる曲だ。だけど、僕が欲していたのはもっと社会に訴求できる、社会的意味合いが強いメッセージだった。「Dawn」で僕が歌いたかったのは「コロナは本当に多くのものを奪った。でもそこから新たな時代の芽が現れてきて、いま、花を咲かせようとしている。だから、どうか、前を向いて。変わっていくことを恐れないで。この変化の先に明るい未来が待っているから」ということだ。僕は基本的にラディカルは発言をする人間でありたいと思っている。みんなが言わなそうなことを正直にあけすけに言いたい。批判されそうなこともそれが正しいと思うのならどんどん発信していきたい。
政治発言は程度の問題によると思う。ビリー・アイリッシュだって民主党大会でスピーチとパフォーマンスを行ったが、決して「わたしはバイデンが大統領にふさわしいと思う」なんてことは一言も言ってない。ただ「投票に参加して。あなたの声がなければ、アメリカは変わらない」ということだった。
このことを、来年4月の秋田県知事選のニュースを見ていて考えていた。
日本では代議制がとられている。衆議院選挙では当選者を選ぶのは国民だが、そこから選出される内閣総理大臣、その他、閣僚人事には携われない。自分が指示した人にこの国の政治を託します、という一票なのだ。だから、あとで当選した人がなにをしようが、結局は投票した人は文句のつけようがない。謝罪や左遷はあるだろうが、その責任すらも一票を握るわたしたちの手中に収められている。だから、選挙に行かなかったらこの国では政治に意見することすらできない。だから、県知事選は絶対に投票に行ってほしい。その当然の権利を自らの手で踏みにじらないでほしい。
そして、そういうことを歌うのはポップスターではなく、ロックスターの仕事だ。そうだ、基本的に僕はロックスピリットに触発され、曲を作り出した人間だった。そのことを思いだした。
三つ目。なぜ、曲作りという手法を選んだかについて話そう。僕は中学の頃は小説家になりたかった。そして、高校の時、実際に書いてみた。12万時書いたのでちょうど文庫本一冊だ。だけど、それは到底人に見せられるようなものではなかった。だから、自分には文才がない、でも、じゃあ、僕の胸の中のモヤモヤはどう吐き出せばいいのだろう、と思った。その時の僕はよく死にたいと思っていた。リストカットもした。僕が創作に向かったのは、誰かを救うようなものが創れれば、自分の価値を認められるようになるんじゃないか、自分を愛せるんじゃないかと思ったからだ。僕は自分を変えたかった。だから、誰かのために、誰かに届けるために創作しようと思った。それが動機。僕の創作物はすべて誰かに届けるためにあった。
だけど、それは万人に届くようなものでは決してない。僕のようにいまもいじめや精神疾患に苦しんでいる人がいる。その人たちに僕は寄り添いたい。その人たちに「苦しいけど、がんばろうね。僕もがんばるから」と言ってあげたかった。
今は少しだけ違う。僕は変わった。生き方も考え方も、すべてあけすけに、包み隠さず、素直に言えるようになった。そのころは考えられなかったことだ。そして足跡のない獣道を歩もうとしている。
僕が曲を届けたい人。それは、同じように明日に希望を持てない人。毎日、明日世界が終わりますようにと願っている人。リストカットが絶えない人。生きていることに価値を見出せない人。そんな人たちに僕は言ってやりたいんだ。
「世界はこんなに美しいんだよ。君が助けを求めれば、きっと誰かが手を差し伸べてくれる。案外、世界は優しんだよ。そりゃ、苦しいこともある。いや、毎日、苦しいことだらけだ。だけど、例えば今日聞いた曲がよかったとか、喫茶店で飲んだコーヒーがおいしかったとか、今日はうまく掃除できたとか、そんな些細なことで僕たちは生きててよかったなと思えるんだよ。そんな小さな幸福の積み重ねが君を希望のもとへ連れて行ってくれる。だから、どうかその殻を壊して、日の光の下へ出ておいで。そこはあたたかくて、お日様のにおいがして、さわやかな風が吹き、どこかから料理のにおいがしてくる場所だ。その世界を、美しい世界を、否定しないで」
だから、僕は万人に訴えるような曲は創れないし、それは僕のニーズとも合致しない。僕は刺さる人に刺さってくれればそれでいい。
お金のことなんてどうだっていいよ。確実にWEBデザインのほうが利回りがいいんだから。
だから、これから僕はポップを捨て去って、自分の作りたいものを作ります。それが正しいと思うから。1000人いても1人に刺さればいいです。だけど、その刺さり方は、その人の考え方が変わるような、そういうブレイクスルーを起こせるパワーがなければいけない。そして、それをロックというんです。
だからと言ってギターロックを作りたいわけじゃない。僕は一流のリスナーでもあるという自覚があるので、そのときどきのトレンドに柔軟に対応していく。音楽はカルチャーだから。最新のサウンドをまとって、積極的にメッセージを発信していく。願わくば、聴いた人が明日も生きようと思えるようなあたたかさと優しさを込めて。