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わたしの統合失調症闘病記③

前にお話ししましたが母が乳がんになり、家事をすべて自分でやっているため、更新が怠ってしまいました。だいぶ期間が空きましたが、闘病記第三弾です。

今回は統合失調症になってはじめはどんな症状があったのか、それから、高専を中退し、定時制高校に入学、高卒認定を取り、大学に入学するまでの話をしたいと思います。

ベッドから起き上がれない、意欲低下、希死念慮

診断が確定してから、一か月ほどは普通に生活していました。しかし、それも長くはもたず、中間試験が近づき、部活は退部できたものの(ほとんど無理やり)、実験中に「ああ、このまま死んだほうがましだなあ」と思い、帰ってきてからカッターで手首を切ろうとしました。結局、切れなかったんですけど。血が怖かったので。で、夕食の席で泣き崩れてしまって、急いで病院へ。薬が増やされ、学校はしばらく休むように言われました。ですので、結局、中間試験は受けられず、期末試験で合格しなければ自動的に留年(高専は留年があります)することが決定しました。

先生と相談した結果、中間試験後に学校に戻るのですが、授業を受けていると、動悸がしたり、めまいがしたり、極度の緊張状態になったりして、とても勉強どころではありませんでした。

そして、結局、期末試験も一科目目でもうだめで、問題も解けないし、その場にいることもできなくて、ここで留年が確定しました。

それで、何度も担任の先生と話し合って今後のことを決めていくことになりました。その先生はとても真摯に僕と向き合ってくれて、今でもその優しい笑顔を覚えています。

僕はずっとエリート街道まっしぐらで、高専も一番難しい電気科に推薦で受かって、クラスで1位を取ったこともあります。ですので、留年というのはどうしてもいやだった。それから、このころは本格的に小説を書きたいと思っていた時期でして、工学じゃなくて文学部に行きたかった。そういう話も先生としていたのですが、そこで、じゃあ、もうきっぱり高専を中退して、定時制の高校で高卒認定を取ったらどうか?そういう子は結構いるよ、そしたら文学部にも入れるでしょう?と言われたんです。なるほど、と思いました。自分の道は一つではないんだな、と。

それで、いままで一緒に過ごした仲間たちと離れるのは少し寂しかったけれど、中退することになりました。

それが高3の夏休みのことでした。それで、この夏休みが大変でして、期末試験を受けられなかったショックなのか、積もりに積もったストレスなのか、朝起きても、身体が動かないんです。とても体の関節が重くて、起き上がれないんです。慢性的な倦怠感があって、とても生活がままならず、一日のほとんどを寝て過ごしました。また、意欲が低下していたので、いままで好きだったゲームや読書や音楽を聴くこともままならず、ただただベッドに横になって、天井を見ながら、「俺、このままどうなるのかなあ」と思っていました。最悪の夏でした。

人生で一番楽しかった定時制高校

秋ころになると体の倦怠感も少し取れて、動けるようになりました。そこで、定時制高校、どこの県にもある、「第一学院高校」に行くことになりました。

「第一学院高校」は通信制の生徒もいますし、普通に全日制のように授業を行って卒業する生徒もいます。僕は「高卒認定コース」で、「高卒認定」という資格があって、これを取ると高校卒業程度と同程度の学力があるとみなされ、大学受験が可能になるのです。中には、中学を卒業してすぐに高卒認定を取る人もいるみたいです。

基本的に第一はいろんな理由で学校に行けなくなった人が集まる場所ですので、様々な生徒がいます。中にはすぐに発作を起こして倒れてしまう生徒もいました。みんな、どこか変わっているというか、ぐれているわけじゃないんですけど、個性的で、あんまり集団にいるのが得意そうではない人が多かったと思います。

で、そこにいた先生がとにかく素晴らしかった。S先生とD先生と出会うのですが、たぶん今まで出会った先生の中で最も僕に寄り添って、一人一人に寄り添って、必ず、ここをみんなにとっていい場所にするんだ!誰も仲間外れにしないんだ!という先生でした。第一の先生は必ずしも教員免許を持っているわけではないのですが、だからこそ、そのような教育ができたのだと思います。今思い返してもS先生とD先生と出会えたのは自分にとってとても幸運なことだったと思います。

S先生はオタクで、特に部類のエヴァオタクでした。で、僕もエヴァ好きでしたので、すぐに意気投合して、勝手にエヴァテストをつくってきて、これ解いてみなよって渡してくるんです。おもしろいですよね。S先生とはとにかく話していて楽しかったなぁ。楽しい思い出しかないです。僕が口ごもっても、ちゃんと待ってくれて、ちゃんと僕の話を真剣に聞いてくれる。そういう人はもしかしたら初めてだったかもしれない。本当に、友達のように接してくれましたし、僕も先生というよりは友達として接していたかもしれません。本当に楽しかったなあ。

D先生はもっと面白いですよ。D先生は教育学部で美術を専攻していたので、第一に美術部を作っていたんです。で、僕も誘われて。いや、僕、絵描けないっすよ、って言ったんですけど、「それでもいいから来てみな」って強引に連れていかれたんです。で、最初にゲームがあるんです。制限時間5分でお題に出された絵を何も見ないで描くんです。でも、これそんなに真剣なものじゃなくて、レクリエーションなんです。美術部の人も、絵がうまい人ももちろんいましたけど、ほとんっど僕みたいに連れてこられた人たちばっかりで。で、例えば「ガチャピン」とか「ドラえもん」とか「スネ夫」とかお題が出て描くわけです。でも何も見れないから、よく覚えてないし、どんなだったっけなあ、って手探りで描くわけです。で、だいたいろくなものが描けない。当たり前ですよ、僕、絵描けないんですから。で、それを順番に見せ合って、みんなで笑いあうっていう。常に笑いで包まれてましたね。みんなどんどん笑顔になっていくんですよ。ひとり、いつも仏頂面な子がいたんですけど、僕が卒業して、文化祭で行ってみたら、見違えるくらい笑顔になって、ものすごく明るくなって、積極的で、みんなをリードしてくれる存在になってました。だから、なんか、マジックみたいでした。みんな明るくなって出ていくんですよ。

僕は思うんですけど、教育っていうのはその人に会った教育っていうのがあって、例えば、いまなら30人くらいなのかな?それぐらいの生徒を一クラスでまとめて、全員、一律で同じ教育法で育てますよ、なんてのは間違いなんです。生徒一人一人にそれぞれ違った教育法、教え方、接し方があってしかるべきで、それをあの狭い教室に押し込もうとするから学級崩壊が起きたり、いじめが起きたりするんです。そうじゃなくて、教育というのはこれからの時代は一人一人に合った、生徒と先生ではなく、一人の人間と人間としての関係というのを保てないと、子供というのは育っていかないと思います。

それができていたのが、第一学院高校でした。本当に素晴らしくいい思い出です。人生であのころが一番楽しかった。S先生、D先生、僕はいまでも先生たちに感謝しています。ありがとうございます。

そして、そのころはじめて親友ができまして。I君って言うんですけど、羽後町からわざわざバスで通ってきてたんですね。で、どうやら同じ病気みたいで、ときどき、体調を崩してこれなかったりするんです。

I君と僕を引き合わせたのもD先生です。たぶん、直感的に気が合うだろうなって思ったんでしょうね。それも正解でした。どちらもオタクなんで、とにかくアニメの話で盛り上がった。で、I君はイラストを描くのがうまくて、本当にいい絵を描いていた。僕は絵が描けないのでそれも興味深く見ていました。絵が少しづつできていく過程を見るのは本当に不思議なものです。

そういえば、高校のサッカー部の応援幕を作ったことがあって、I君が下絵を描いて、みんなで塗ったんですけど、あれもいい思い出だな。

I君とは距離が離れていましたが、当時からSkypeを使って音声通話をしていて、けっこう夜遅くまで話し込んでました。楽しかったなあ。I君はその後、地元でイラストコンテストを主催しまして、そのホームぺージとか運営のお手伝いを僕がしていました。その話はまたいずれ詳しくすると思います。I君は今は地元の羽後町の道の駅で元気に働いています。実は今ちょっと疎遠になってるんですが、僕の方はもう一生の友達と思っていますので、なんとか近いうちに仲直りしたいです…。

で、無事に高卒認定を一年でとれまして、2013年春に卒業します。ああいうちゃんとした卒業式は考えてみればあれが最後ですので、本当に感慨深いというか、いまでもよく覚えています。

で、そこからの進路なんですが、僕は仙台の専門学校に行って、3DCGを勉強したかったんです。当時は今ほどはCGの注目度って高くなかったんですけど、僕は昔からCG作品が好きで。数理的に世界を構築できることにあこがれというか、これなら僕もできるんじゃないかみたいに思ってたんです。で、そのあと、実際にゼロからキャラクターモデリングをやりまして、僕は絵が描けませんので、そもそもキャラクターデザインができなくて、ろくなものは作れませんでした。でも、とにかくやってみたくて。実際に仙台に行って学校見学もしました。だけど、両親が、専門学校はお金もかかるし、それよりも仙台で一人暮らしができるのか?と言われて、反対されたんです。

あれ、文学部に行きたいんじゃなかったんだっけ?と思ったかもしれません。文学部にも興味はありました。でも、秋田に文学部ってないんです。で、もう一人暮らしはできないから絶対に県外はダメって言われまして、もう選択肢がなくなったんですね。

そもそも僕はセンター試験を受けるつもりはありませんでした。もう、専門学校に行くって決めてたから。だから、このころはとかく興味がうつろいやすくて、ちょっと情緒不安定でした。言語・思考系統の統制が取れていない状態、まぁ、躁状態ですね。

それで、仕方なく秋ごろにノースアジア大学の経済学部のAO入試を受けて。普通、AO入試ってよっぽどのことがない限り受からないんですけど、ノースアジア大学はバカなので、受けた人ほとんど全員受かってました。まぁ、定員割れするところなので…。

秋田大学を受けようかみたいな話はあったんですが、そもそも生きたい学部がなかった。だって、教育学部と鉱山資源学部と工学部しかないじゃないか。僕はもう工学に行きたくなかったんです。

で、ノースアジア大学の説明会に行ったときに、うちでは哲学や心理学も授業としてありますよって言われたんです。それにつられて受けてしまったというか…。

本当に別に行きたかったわけじゃないんです。経済なんて何の役に立つんだって話ですよ。でも県外には行けない、県内に文学部はない、県内の専門学校はレベルが低い、そもそもセンターの準備してないってことで、まぁ、ほとんどしょうがなくノースアジア大学に入りました。

でも、今思えばこれが全ての間違いでした。無理してでも仙台に行ったほうがよほどましな結果になったろうと思います。やっぱり人はやりたいことやるのが一番幸福なんですよ。で、一番不幸なのはやりたくないことを無理やりやらせられること。そういう状況下に自分を置いてしまったのが間違いでした。

以上、高校卒業編、終わり。次は、ノースアジア大学編。一年まではよかったけど、二年で病気が再発し、閉鎖病棟に6日間入院、大学を休学するまで、です。

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