最近、暗いニュースばかり延々と流れる現状に疲れを抱いている人は大勢いるだろう。コロナ禍で世界はどう変わっていくのか、そしてわたしたちの生活は守られるのか、また、多発する異常気象、もう何回目かもわからない豪雨災害。しかし、わたしたちはそういった世界の情報に対して一定の防御策を講じなければ、心の平安を保てない。そのためになにをするべきなのか、考えていこう。
これは私個人の話だ。ステイホーム期間中、私が考えていたのは、「もう、コロナのことを悲観的に考えるのは飽きた」ということだった。悲観的になって小さな幸せを見落としたり、心の余裕がなくなって自分の周りにいる人を傷つけたり、本当に助けを必要としている人に手を差し伸べられないなら、わたしは悲観主義なんて捨ててしまうべきだと思った。
仏教では、過去と未来の実在を明確に否定する。「今ここ」という現在しか存在しないと考える。過去、というのは実際には起きていることだが、多くの場合、それは「過去」というよりは「記憶」であり、事実に自分の意見や思い込みが上書きされていることが多い。
仏教では、人の思考が存在しない状態、つまり「無我」が人間にとって最も最適な状態だと定義する。思考とはまやかしだ、とはっきり言ってしまう。それはあなたの思い込みであって、歪められた認識であって、事実ではない。それを振り払える心を鍛えるのが瞑想なのだ。前に紹介した「マインドフルネス」は仏教の瞑想から宗教性だけを取り除いただけのもので、やっていることはお釈迦様が行った修行と変わりない。
つまり、過去に実際に起きたことでも、「記憶」に変わってしまった時点で、それはもう「思考」であり、「まやかし」であり、「思い込み」なのだ。だから、「過去」は「今ここ」には存在しない。それは過ぎ去ったものであり、記憶もまたまやかしである。
では、「未来」はどうか。未来はまだやってきていない。「不安」という感情は未来に対するものだが、未来は定まっていないし、予測することもできない。「こうなるかもしれない」と考えても、それは可能性の範囲でしかないし、まだ起こってもいないことで気を病むのはまさに杞憂だ。だから、「今ここ」に「未来」も存在しない。
結局のところ、わたしたちは「今ここ」を精いっぱい生きるしかない。その軌跡が誇りある過去に変わり、やがて努力が実を結び、幸福な未来が実現されるのである。
そうなのだ。不確定な未来を心配したり、不安に思っても意味がないのだ。なぜなら、それは「まだ起こっていないこと」であり、まだ起こっていないなら対処もできないし、「心配」や「不安」はわたしたちが勝手に作り出した「思考」であり、「思い込み」なのだ。そんなものに気を取られていては生きてはいけないのである。わたしたちは常に「今ここ」にいなければいけない。
悲観主義でなにか得をするのか? 多くの未来の予測を立てて、慎重に行動するため、失敗は減るかもしれない。だけど、その準備に気を取られて、行動を逸してしまいかねない。また、未来のことばかりに気を取られるあまり、逆に集中力がなくなってミスが多発したり、せっかくのチャンスをふいにしたりするかもしれない。それから、あらかじめ予測していた出来事が実際には起こらなくて、杞憂だったということもありうる。
悲観的に考えると心の余裕がなくなって人は攻撃的になったり、批判的になったりする。意味のないことでイライラしたり、他人に言いがかりをつけ始める。
楽観主義はどうか。これはある実験のデータなのだが、様々な幸福の度合いを測る質問を用意し、悲観的なグループと楽観的なグループに分けてテストしたところ、楽観的な人のほうが幸福度が高かった。
これは、未来への不安から解放されているからである。「なんとかなるでしょ」と思ってるから、不安に煩わされることがない。失敗しても「次は気を付けよう」で済む。
わたしは思うのだが、成功するよりも圧倒的に失敗したほうが学ぶことは大きいと思う。ここがダメだったんだな、とわかれば、いくらでも修正ができるし、よりよい未来を引き寄せることができる。逆に成功し続けている人は、いつか失敗したときにどうしていいかわからない。対処法がわからないのだ。そして大きな挫折を味わう。それよりだったら小さな失敗を積み重ねたほうがいいじゃないか。
異常気象、地球温暖化、環境破壊、人種差別、ナショナリズム、パンデミック、世界はいよいよ混迷の度合いを強めている。でも、どうか、そんな情報に惑わされないでほしい。
少しだけ角が立つようなことを言わせてもらう。ニュースで苦しんでいる人の映像が流れる。多くの人はその映像で心を痛めるだろう。「自分がもし、同じ立場だったら…」と考える。これは、人間にとって必要な「共感」の能力であり、共感力は人間的に生きていくうえでとても大切だ。共感力のない人はほとんど機械と同じだ。人間味がないと言われてしまう。でも、よく考えてほしい。テレビに映っているその人は自分の身近にいる人なのか? たいていは赤の他人だろう。もちろん、同じ日本に住んでいる仲間ではあるが、しかし、赤の他人に対して大きな共感、つまり、同調して心を痛めたり、泣いてしまうことになにか価値があるだろうか?
わたしは思うのだが、人間は半径2mくらいの人と仲良く幸せに生きていられればそれでいいと思ってる。それは、だいたい家族と友達と恋人と、仲のいい親戚、ご近所さん、仕事仲間くらいの半径だと思う。正直、それ以上、円を広げると、人間はキャパオーバーを起こして、不安に耐えられなくなる。
事実、3.11のあとにうつ病患者が増えたのはよく知られていることだ。しかし、そこまで背負う必要は、わたしはないと思う。人類すべての幸福を願うことは必要だが、人類すべての不幸を背負う必要は全くない。
勘違いしないでいただきたいのは、わたしが言いたいのはニュースとは一定の距離を保ったほうがいい、それが、ある種の自己防衛になる、ということである。同じ日本人として今、九州で苦しんでいる人たちのことを思うことは大切だ。しかし、それもまた一つの悲観主義であると気が付いてほしい。どこかで自分たちもああなるんじゃないかと考えている。だから、不安になる。そういう悲観主義をすべて捨て去って、楽観的に、「なんとかなるだろう」と思って生きてほしいのだ。それは決して悪いことじゃない。心の余裕があるということはその分周りの人に優しさを分けてあげられることなのだから。