米津玄師のニューアルバム「STRAY SHEEP」は本当にとんでもないアルバムになった。まず、出荷枚数でミリオン達成、これはCDバブルだった1990~2000年代でもありえなかったことだ。初週売り上げ枚数は88万枚。翌週、8月18日付のオリコンランキング(もはやこの響きが懐かしく感じる)でさらりと113.1万枚を達成し、平成生まれ初のミリオンセラーとなった。
このアルバムには数々のヒット曲が収められている。「Lemon」をはじめ、「パプリカ」セルフカバー、「まちがいさがし」セルフカバー、「海の幽霊」、「馬と鹿」などなどどれもヒットチャートをこれでもかとにぎわせた名曲ばかりだ。
しかし、このアルバムを単に「Lemon」の入っているアルバムと思って買うと期待を裏切られる。
なぜか?
それは2曲目が「Flamingo」だからだ。
これにはわたしも驚いた。まず、一曲目、「カムパネルラ」から曲は妖しいムードが漂い、「Lemon」以降の米津玄師ではなく、むしろ最初期の「ゴーゴー幽霊船」やボカロ期をほうふつとさせる曲調だからだ。最近の米津曲はどれもそうだが、借用和音が多い。「Lemon」での同主調転調もちらっと話題になったりしたが、特にこの曲、「カムパネルラ」はそもそものキーがわからなくなるくらい借用和音ばかりで、むしろ調性がなくなりかけている。そして、それを意図してやろうとしていることが伝わってくる。つまり、今までの音楽理論を壊してでも自らの美しいと思う曲をつくろうとしているのだ。
「Flamingo」ほど不可思議なシングルはないと思う。この曲はベースがずっと同じフレーズを奏でていて、ループミュージックなのだが、そこに様々な音が、いわば遊びのように入ってきて、それがこの曲に色彩感をまとわせている。しかし、この曲に厳密なコードはない。そもそもコード楽器が入ってないから。ベースだけだから。なのに、なんでこんなに踊れて、演歌風で、ありとあらゆる相反する感情が沸き起こってくるのだろう。
「感電」は話題のドラマ主題歌。これはなんとファンクナンバーだ。最近の米津玄師はトレンドに敏感で、「海の幽霊」で用いた”デジタルクワイア”も最新のソフトがあったからこそ実現したもので、最近ではもう定番化しつつある。しかし、日本で最初にやったのは米津玄師だ。ファンクは今一番トレンドな音楽で、2月に出したDua Lipaの「Future Nostalgia」がその代表格。また、日本でも竹内まりあの「Plastic Love」が若者、とりわけティーンエイジャーを中心に人気だったりする。そういう80年代ネオソウルが復活、というか若者にはそれが新鮮に映るのだろう。この曲もファンクなので、テンションコードが非常に多く、この間、まらしぃさんのピアノ演奏を聴いたのだが、テンションが多すぎて大変そうだった。ファンクでもあり、コード感はジャズっぽくもある。これが米津曲としては新しい。
「PLACEBO」はプライベートでも親交の深い野田洋次郎とのデュエット。この二人に求めらえるようなサウンドではない。シンセが主体で、エレクトロで、シンプルなドラムトラックには近年のローファイヒップホップの香りがしたりもする。これについて、米津玄師が、「いわゆる米津玄師と野田洋次郎に求められるセカイ系で壮大な曲、というのはあからさますぎるので避けた」と明言している。だが、この曲で特筆すべき点なのは、米津玄師と野田洋次郎の声のギャップだ。野田さんの声はおそらく意識してそうしたのだろうが、とてもピュアで、きれいな響きがする。それに比べると、米津玄師の声は少しかすれ気味で、だけどそこが味わい深い。この対比をうまく表すには、おそらくトラックをシンプルにするべきだと思ったのだろう。結果、米津玄師とはどういうシンガーなのか?ということが明確になっている。
続いて、「パプリカ」のセルフカバー。これは既出ではあるが、トレンドのフューチャーベースを用いたトラックでありながらも、日本の田舎の郷愁、誰にでもある、故郷への思いというものがにじみ出ていて、Foorin盤にはない趣がある。しかし、なぜ、ここまで大胆で新鮮なサウンドを用いながらも「郷愁」をテーマに歌えるのだろうか?もともとのメロディがそうなのだろうが、やはり米津玄師のシンガーとしての実力がいかんなく発揮されている。
「馬と鹿」、こちらもドラマ主題歌。サビのストリングスがとにかく壮大。しかし、アルバムリマスターで初めて気づいたのだが、コントラバスだと思っていたベースが実はシンセベースだった。だから、上モノはストリングスで綺麗で荘厳に響くのに、ドラムトラックはストンプ(大勢で足踏みやクラップをして音をつくるもの)で、ベースがシンセだから、リズム隊がどっしり構えるつくりになっており、うえでいかにストリングスが暴れまわれようが構わない造りになっている。非常に建築的な構成だ。
そして、なんと言っても米津玄師はアルバム曲がよい。「優しい人」。これは、いじめをテーマにした曲だ。正直、米津玄師がここまで直截にものを言うのは初めてだと思う。”気の毒に生まれて汚されるあの子を、あなたはきれいだと言った 傍らで眺めるわたしにはひどく醜く映った”これはいじめというテーマに収まりきらない、人の美醜の話だと思う。いじめられるのがあの子でよかったと安心する自分がいて、そんな自分がものすごく汚く思えた、そういう、魂の高潔さの話をしているのだと思う。いじめに立ち向かうあの子は綺麗で、それをはた目で見ている自分は汚くて、そして、あの子の綺麗さがわかるあなたはやはり美しい、あなたみたいに優しくなりたい。そこには彼が常に優しい人間でありたいと、美しく生きていたいのだという決意がにじみ出ているように思う。
この流れからの「Lemon」はやばい。涙腺が崩壊してしまう。そして改めて、この曲は”歌謡曲”なのだと痛感した。メロディの哀愁さはこのアルバムの中でもピカイチで、だからこそどんな世代の人にも届く歌になった。
「まちがいさがし」セルフカバーは菅田将暉バージョンとは全く違うものになった。シンセやデジタルコーラス、AutoTuneなどエレクトロ系の曲になっているが、しかし、この曲の持つ普遍性、ポップネスというものは少しも損なわれていない。
「ひまわり」。ここでアルバムはすこしひねった方向へ行く。この曲はそれこそ「ゴーゴー幽霊船」「ドーナツホール」のような初期米津曲のオルタナティブロック感が強く、コードの複雑さ、それでいてまっすぐバンドサウンドで飛び込んで来るロックサウンドに懐かしささえ覚える。
「迷える羊」。この曲ほど解説が難しい曲はないのではないか。カロリーメイトの本人登場CMのタイアップ曲だが、サビは壮大なのに、Aメロ、Bメロがものすごく暗い。絶望感からサビへ向けて一気に解放へと向かう流れが素晴らしい。そして、サビの歌詞の「1000年後の未来には僕らは生きていない 友達よいつの日も愛してるよ きっと」という歌詞が今の現状を端的に表している。今回のアルバムは実はツアーが終わってから作る予定だったのだが、コロナ禍により、すべて休止せざるを得ない状況になって、今、自分にできることはなにか、と考えてときに、それは曲を作ることだった、と米津はインタビューで述べている。そして、初めに手を付けたのがこの曲。もし、人類が滅びるとしても、僕らの友情は消えないし、どんな状況下でもあなたを思い続ける、そう、自分に言い聞かせているようにわたしには聞こえる。
「Decollete」。米津玄師のアルバムに一曲は必ず入っている変な曲。しかし、「兎角疲れました」という歌詞に、実は米津玄師はポップスターとしてのスターダムを上がっていくことにものすごい嫌悪感を感じていたのではないかと、それがこういう曲を生んだのではないかと考察される。
「TEENAGE RIOT」。これが今現在の米津玄師のロック感なのだろう。疾走感あふれるエイトビートに載せて紡がれる”バースデイソング”。ここまでストレートなロックは最近は日本ではとんとなかった。だから、ここには必然的にロックがピースとして当てはまるべきだった。このアルバムはありとあらゆるジャンルの曲が収められている。だから、そこにロックが入っていないのは彼にとって許しがたいことだったのではないか。そこにはロック魂というものがきちんと宿っている。
「海と幽霊」は「海獣の子供」の主題歌。米津玄師は原作の大ファンで、いつかこの漫画の曲を書きたいと常々思っていたのだそうだ。そこにこのタイアップの話が舞い込み、喜ぶとともに、本当にこんなことあっていいんだと思ったんだそう。「海獣の子供」はとても難解で哲学的な作品だった。その哲学性をにおわせながらも、作品の壮大さ、美しさをそのまま体現したかのような、とてつもなく美しいメロディ。彼にとって、この曲が当時の最高傑作だったそうだ。だって、夢がかなったのだから。そして、ここから米津玄師のメロディは歌謡曲ではなく、そこを超えて、日本人に届きやすく、しかし、伝統的なJ-POPでもない、ただただ美しく、壮麗なメロディを紡ぐようになっていく。
最後の曲。わたしは「優しい人」が今回の白眉かなと思っていたのだが、違った。まず、間違いなくこれは現時点での米津玄師の最高傑作、「カナリヤ」。”あなたとならいいよ 歩いていこう 最後まで”、こんなに美しい歌があるだろうか?彼はこのアルバムで様々な人に向けて曲を歌った。それはバディであったり、虐げられている人だったり、誰かを亡くした人だったり、自分自身だったり。しかし、ここには必然のように、”自分が世界で最も大切で、必要としているあなたが、いまここにいればそれだけでなにもいらない”という、ほかでもない、”あなた”への歌が最後のピースとして埋まるわけなのである。
さて、ここで、タイトルの議題、「これはポップアルバムなのか?」という問いに戻りたい。あなたはどう思うか?
このアルバムにはファンク、オルタナティブ、エレクトロ、J-POP、歌謡曲、ロック、ありとあらゆるジャンルが網羅されている。しかし、アレンジの面からみるとこのアルバムの本質は見えてこない。
メロディだ。メロディが全てを物語っている。すべてのメロディが生き生きとして、美しく、輝いているではないか。わたしはこれ以上、日本語の曲で美しい曲は存在しないと断言する。これが、日本語のポップスの、最も美しい形だ。
米津玄師がいつも口にするのは”美しいものとは何か?”という問いだ。そして、それを追求し、こうして形にしてしまったのだ。これを超えるメロディは、もう米津玄師本人にしか書けない。
しかし、それはJ-POPなのか?と問われると、そうではない。もはやそういう枠組みに彼はいない。今作で彼はジャンルという枠組みを粉々に破壊し、それでもメロディが美しければそれはポップスになるのだ、ということを証明してしまった。このメロディは日本語で歌われているが、おそらくどこの国の人が聴いても美しいというだろう。そういう、国を超える強さと普遍的な美しさが、このアルバムにはある。だから、もう日本という国から飛び立って、世界の米津玄師になるべきなのだ。
彼は最初から異端だった。はじめはボカロPとしてスタートし、そのオルタナティブ性で初期のボカロ全盛期を支えた。ボカロ曲の骨子を作ったのはまちがいなく米津玄師だ。そこから、自分なりのJ-POPとして作った「diorama」はJ-POPではないと批判され、ひどく落ち込む。しかし、その後、「アイネクライネ」でヒットを飛ばし、自分なりのJ-POPを見つけていく。それが「Lemon」に昇華され、一躍、国民的歌手に。しかし、彼のそもそものスタート地点はオルタナティブロックであり、ネットミュージックだった。
彼が作る曲はまっとうなJ-POPではない。いつだってどこか違う視点からスタートしている。「Lemon」は3連符の連続で、非常にブラックミュージックに近いアプローチがとられている。つまり、何が言いたいかというと、彼の中にJ-POPはなかった、ということだ。彼はオルタナティブロック、ネットミュージックの視点からある種、戦略的に、後天的に、自らのポップ性を、ゼロから創り上げたのだ。だから、彼は唯一無二であり、これからもそうあり続ける。彼はポップでありたいと願い、それに向けてひたむきな努力を続けてきたからこそ、今、スターダムにのし上がれた。それは尋常じゃない苦難の連続だったはずだ。
彼は天才なんかじゃない、努力家で、音楽好きの、一人の青年なのだ。