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ヨルシカ「盗作」から考える-音楽は定理化できるか?

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ヨルシカはもはや誰もが認める一流アーティストなった。ビルボードチャートではHot Albumなど様々なチャートで一位を独占、そしてすごいのは発売の翌週、この週は米津玄師のアルバムとずっと真夜中でいいのに。のアルバムが同時に出るというかなりの発売ラッシュであったにもかかわらず、米津玄師、ずとまよに続き、三位に食い込むという記録を打ち出している。

ヨルシカのニューアルバム「盗作」は音楽を盗作する男を主人公とした一つの物語であり、コンセプトアルバムだ。ヨルシカは前々作の「だから僕は音楽を辞めた」から一続きの物語としてアルバムを創作するようになり、「だから僕は音楽を辞めた」は次作の「エルマ」で一続きの物語となっている。

ヨルシカは前年から爆発的に人気を集め、初のツアーを敢行、大成功をおさめ、そして今年の3月、「夜行」を公開し、新たな物語をつづり始めた。

続いてリリースされた楽曲は「花に亡霊」。これは「泣きたい私は猫をかぶる」のタイアップであり、「夜行」とのつながりがありつつも、主題歌としての完成度の高さに驚かされた。そして、しばらく時間が空き、6月、この「盗作」というアルバムの発売が発表され、ファンは驚いた。

同時に公開されたのは「春ひさぎ」という曲。

「夜行」などと違ってジャズナンバーになっており、この曲とタイアップ曲がどう結びつくのか、そもそも「盗作」というコンセプトですべてをまとめ上げられるのか?など疑問が噴出した。

そして、このアルバムにはn-buna直筆の100ページ超を超える小説が付属。これによってアルバムの物語を補完する内容となっている。

今回は小説の考察などは行わない。なぜなら、そういうのは他の人がたくさんやっているから。希望があれば書きますので、そのときはリプください。

今回のテーマは、この小説の主人公のように、有名な曲のメロディーを盗作して作曲し、それが商業的成功を収められるのか、つまり、音楽は理論づけして体系的に語りうることができるものなのか?という問題である。

まず、「盗作」というタイトルを聴いて思い浮かんだのは東京オリンピックのロゴマークの盗作問題。そして、なんと小説でも東京五輪は関わってくるのだからn-bunaが気にしなかったわけがない。あれは、おそらく本当に盗作だった。しかし、一時はグッズが作られるくらい、定着しかけていたのだ。ここがもしかすればn-bunaの着想のルーツかもしれない。

まず、話さなければいけないのは、音楽を創るとき、必ず、「音楽理論」というものが関わってくる、ということだ。この音楽理論はクラシックの時代に確立されたもので、形を変えながらも現代も根本原理は変わらない。つまり、今の時代も18世紀の音楽とやっていることは変わっていないのだ、と言えることができる。

音楽理論を使えば簡単に、誰でもとは言わないが多少努力すれば曲が作れるようになる。しかし、音楽理論を遵守したものをつくろうとすると、途端につまらないものが出来上がる。「個性」がないのである。画一的で均一な量産型の曲が出来上がってしまう。

しかし、ある種、ビートルズ以降の音楽というのは商業的に成功することが第一義であって、そのためなら似たようなものを大量生産しても構わない、という態度がどこかで存在していたように思う。

ここでキャッチーなメロディとは何か?ということを考えてみよう。わたしも音楽を創るにあたって、キャッチーなメロディとは何なのか、研究し、思考し、一つの答えにたどり着いた。それは”どこかで聞いたことがある”である。

J-POPという音楽はとても体系づけられていて、理論的に考察することがたやすい。例えば、小室進行というコードワークがあって、Am-F-G-Cと進行する。こういうコードワークの曲は山ほどある。なぜなら、これがわかりやすく気持ちいいからだ。音楽理論とは、どういう音の配置をすれば人は気持ちいいと感じるのか?を追求した学問だ。つまり、人が音楽によって受ける感情を、理論によって統制しているのである。Amだったら悲しい感じがする、Fだったら明るい感じ、とコードの性格が決まっていて、特にJ-POPではコードワークはほとんどパターン化されている。だから本屋にコードワークだけを載せた解説本が並ぶ。

ある通りで曲が流れていて、知らない曲なんだけどなんとなく耳に残った、という経験は多くの人がしていると思う。では、なぜ、そのメロディは耳に残ったのか?それは以前に似たようなメロディを聞いたことがあるからではないか?つまり、J-POPという産業音楽はメロディを定理化しているのではないか?

これに一定の説明をつけることはできる。例えば、日本語の性質上、一音につき一文字と歌詞に制約があるため、日本語のメロディというのは必然的に音が多くなる。音を詰め込まないと日本語の歌は間延びするのだ。洋楽は逆に音を伸ばす傾向にある。で、適当に散文詩を書いて、それにメロディをつけてみるとする。すると、たいていの人は8ビートで曲を書く。するとどうなるか?8分音符で音を刻み、いいところで4分音符をつかって音を伸ばす。これは完全にフォークなメロディだ。素人が曲を作ると必ずフォーキーな曲になる。あるいは歌謡曲になる。これは日本語でメロディをつくるうえでの必然である。

いい例がさだまさしの「関白宣言」だ。これはほとんど歌詞だけで音楽が成り立っているのであって、特徴的なメロディというものがない。だいたい同じ節回しになる。同じような曲はいくらでも作れる。

これは例が極端であるが、J-POPではとかく「盗作疑惑」が揶揄される。そういうケースが非常に多い。それはたいていは事実無根であると思う。だが、似ていることは事実なのだ。つまり、J-POPにおいて、いいメロディを追求していくと、結局同じようなところに行きついてしまうのではないか?ということが言える。

こんなことが日常茶飯事なのだから、主人公のようにメロディを盗作しても、おそらく気づかれることはないだろう。そして、それは盗作したのだから耳に残って必然である。すでにそのメロディを聴いているから。

すると、音楽は定理化できるうえに、究極的には同じ答えに行きつくということになる。

話を変える。近年、AIがどんどん進化してきて、それは音楽制作にも影響を与えている。例えば、AIが自動でミックス・マスタリングするソフトが普通に売られている。また、AI作曲ソフトもすでに6~7万円くらいで手に入れられる。

このソフトは出てきた時は本当にちゃちな曲しか作れなかったのだが、ここまでくるとちょっとうならざるをえない。つまり、何が言いたいかというと、AIは人を介さなくても完璧に理論に沿った、定理化された音楽を人よりも速く、正確に作れるということだ。

これからAI作曲はますます進化してくる。そして、いずれ、人が作った曲とAIが作った曲の区別がつかなくなる瞬間が訪れる。そのとき、人はどちらを選ぶだろうか?

これでAIの話をした意味が分かったと思う。つまり、音楽が定理化できるならそれはすぐにAIが代替してしまう、つまり、作曲家として成り立たなくなるというわけだ。

はっきり言って、J-POPみたいな定理化された商業音楽というのはもうみんな聞き飽きてる。だからKing Gnuやヒゲダンみたいなひねったバンドが売れる。みんなが欲しいものは、そこそこの曲で、聴きなじみのいい曲ではなく、衝撃的なくらいアクが強くて、人生観すら変えてしまうようなメッセージなのではないだろうか?近年はそういう、いわゆる「アート」的な音楽がヒットする傾向にある。今までにない音楽、それこそ、「ヨルシカ」「ずっと真夜中でいいのに。」「YOASOBI」などがそのいい例だ。

ここで言っておきたいのは「アート」と「商業音楽」は両立できないということである。なぜならアートを極めるとピカソの抽象画みたいにわけのわからない頭でっかちなものが出来上がってくる。そうやってクラシックは終わった。シェーンベルクという音楽家が1930年代に調性を崩壊させる「12音技法」という手法を編み出し、そこで理論が成立しなくなり、また、聴衆も追いつけず、クラシックは終焉を迎える。キーがそもそもないので歌えないし、演奏も鬼のように難しい。そんな作品を大衆が喜ぶわけはなかった。しかし、クラシックは「アート」であり、「芸術」であったために、新たな手法を選び取り、崩壊に向かった。「商業音楽」とは聴衆がいて初めて成立する音楽であり、このように音楽家の自己満足では成立しない。だから、近年のJ-POPではこの「アート」と「J-POP」をなんとか結び付けようと躍起になっている。しかし、それはもともと水と油であり、本当に難しいことなのだ。

人間にはできて、AIにはできないこと、それは新たな音楽を創造することである。ここでAIの仕組みについて言及する。AIは機械学習によってそこに定理を見つけ、その定義に基づいて量産を繰り返す。つまり、過去のサンプルがなければ音楽は作れない。だから、ビートルズみたいな曲を、カーペンターズみたいな曲を、と言えば1分で作れるようになる。だが、それはしょせん焼き直しだ。売れるかもしれないが、すぐに忘れ去られる。

本当にいい曲というのは、音楽の価値自体、あるいはその人の価値や認識を変える力を持つのだ。誰しも、この曲に救われた、という経験があるだろう。そういう曲は定理化された、あるいは音楽理論に遵守した方法論では、絶対に作れないのである。

つまり、盗作によって人はある程度、商業的成功を収められるかもしれない。しかし、そこに新しさや人の認識を変えるほどの影響力はなく、芸術として成立しないただの工場生産品なのだ。そんな人はいくらでも替えが聞く。だから、音楽理論で曲を作るのは間違っているし、人の心というものを音楽によって統制できるわけがない。そんなことができるならまずは心理学を学んでからにしろ、というのが今回の結論である。

結局、主人公は失墜するわけである。それはなぜか?彼が作った曲はたしかに人の心を動かしたのだろう。だから東京五輪のテーマ曲を任された。しかし、彼には音楽を創る動機がなかった。はじめから、その音楽の中身は空っぽだったのだ。そして、自分の心を動かしたものが盗作であるなら、聴衆の心は作者に操作されていたということであり、それは人にとって一番の不快である。

ここで小説の話を少しだけして終わりたい。

彼が作った作品の中に、「穴」というものがあった。本なのだが、中を開くと何も書かれてなくて、中央に丸い穴が空いている。そして、これは初回限定版についている、カセットの入れ物となっているのだ。この意味を考えてみると面白いと思う。