アニメ版「進撃の巨人」が10年の時を経て完結した。
10年代を代表する作品が完結したということで末筆ながらその総論をここに残しておきたいと思う。
戦争はなくならない、これは繰り返す物語だ
以下、ネタバレを含みます。
エレンをミカサが打ち取り、始祖の巨人が死んだことによってすべての巨人の力が失われた。しかし、その代償は大きかった。人類の8割が地ならしによって踏み潰された。生き残ったパラディ島勢力は軍拡化を進め、世界は憎しみによってパラディ島を非難する。
だが、希望は残された。生き残ったアルミンたちは和平交渉に向かうため、パラディ島に向かう。その顛末までは計り知ることができないが、わずかだとしても平和への道は残されている。
私が特に印象に残っているシーンは、エレンとアルミンが地ならしの起きた血の海で語り合うシーン。
エレンは海から人の残骸を拾う。しかし、アルミンはそこから貝殻を拾う。
そして、こう言う。「エレンは僕達に海を見せてくれたじゃないか!」
そう、エレンの活躍がなければ、アルミンたちはいつまでも壁の内側にこもって生きているしかなかった。
それは、わたしたちのように頑なに閉ざされた心の比喩だと思う。人々と断絶して、孤独に生きる現代人の比喩としての壁。
そこから、エレンは連れ出してくれた。自由を与えてくれた。
エレンとアルミンは抱き合う。
「この地獄で、すべてが終わったあとにまた会おう」
エレンとアルミンは罪を分け合うことにした。ここに変わらないエレンとアルミンの友情がある。
8割の人類を抹殺した罪は計り知れない。その罰として、エレンは処刑され、アルミンはこの地獄のような世界の復興を担うことになる。
しかし、憎しみの連鎖は終わらない。世界はパラディ島を許さない。パラディ島もそれに応じて武力化していく。
これは、今の現代と全く変わらない景色だ。
ウクライナ戦争は未だ膠着状態だ。
その間にイスラエルとハマスによる戦闘が始まって、多くの市民が犠牲になっている。
大義を正義として、小さな命が抹殺されていく。抑圧されていく。
その世界の縮図が、「進撃の巨人」だ。
巨人とは、ここで言う大義だ。抗えないものの象徴として物語に登場する。そして、そこに立ち向かう人類はわずかばかりの刃で巨人と戦うのだ。そんな勝ち目のない戦をずっと続けてきた。
そして、最終回にて、その戦いには幕が降ろされた。エレンの死によって。
この物語ははじめから破滅へと向かっていた。主人公の死、という禁忌を犯してまだ描かれなければいけなかったのは、憎しみは連鎖するという危機感だ。
巨人への憎しみ、ライナー・ベルトルトへの憎しみ、パラディ島への憎しみ、エレンへの憎しみ、地ならしへの憎しみ。
この連鎖を断つことは不可能だ。
それでも、僕達は他でもないこの世界で生きていかねばならない。
エンディングロールで描かれた通り、このあと、世界は急成長し、そしてまた戦争が起き、文明が崩壊する。
そして、崩壊した世界でさまよい歩いていた少年が、エレンの眠る木の畝に入り、また巨人の力が生み出されるのだ。
この物語は繰り返す。なぜなら、人々は憎しみ合い、傷つけあっているから。そのことに気づけないままではいつまでも平和はやってこない。
しかし、エレンとアルミンはその罪の重さを知っている。
自分たちが殺し合いの果てに手にしたのは自由と罪と罰だと自覚している。
だからこそ、この作品には希望がある。
当事者が罪の意識を持っていれば、自分たちが無自覚にどれほどの人の心を踏みにじってきたのか自覚していれば、救いはある。
結局、この作品は人の心に行き着くのである。
炎上系YouTuber、記憶がないと言い張る政治家、根拠のない憶測を拡散するSNS。
人は無様にも傷つけ合う。そして、憎しみは連鎖する。
だけど、その罪の重さを知っていれば、思いとどまることができる。
この作品が描きたかったのはそこだ。
ライナーたちとアルミンたちが傷を、罪を分かち合い、共闘できたように、人に共感することができれば、あるいは争いは収まるのかもしれない。
相手がどれほどの傷を背負い、憎しみを持ち、自分と対峙しているのか。それを知ることができたならば、世界は少しだけ優しくなれる。
憎しみを描いたこの作品が最後に描きたかったのは、そんな単純な和解だった。
これは僕達に突きつけられた課題だ。
この憎しみの連鎖をどう断ち切るのか。
あなた達にはそれができるのか?
それが今、試されている。