1月にリリースされたヨルシカのEP「創作」は前作「盗作」のアナザーストーリーとなる楽曲群で、同じ世界観のもとに違うコンセプトのもとに練り上げられた。
今回はでは具体的にn-bunaの中で「盗作」と「創作」はどう違うのか?を探っていきたい。
「盗作」と「創作」の違い
インタビューにてn-bunaは「盗作」のコンセプトについてこう語っている。
前作で、現代のほとんどの音楽に「創作足りえる者は存在しない」ということを表現して「盗作」と名付けました。
ロッキングオンジャパン3月号
このコンセプトのもとアルバム「盗作」はつくられた。
インタビュアーが「では具体的なオマージュの元ネタはあるのか?」と聞くと、あいまいにはぐらかした。
n-bunaはこうも語っている。
「盗作」をリリースしたときは、ここにはこういうオマージュが込められているんだろうとか、作品の本質的な価値とは何も関係のないところで議論している人たちを見るのを、僕は楽しみにしてきた
ロッキングオンジャパン3月号
n-bunaはリスナーの反応をほとんど気にしない立場だったが、今回「盗作」というコンセプトを掲げるにあたり、盗作(とされている)音楽がどのようにリスナーに聞かれるか、単純にアートとしての探索としてやってみたかったのだろう。
意地の悪いn-bunaの考えそうなことだ。
そして「盗作」制作当初から「創作」とつくることは想定されていたという。
聞いてみると、「創作」に入っている楽曲はどれも小説「盗作」の主人公と亡くなった奥さんの話であることが分かる。
そして、タイトル楽曲である「創作」はなんと実験的なインストだった。
これについてn-bunaはこう語っている。
僕にとっての「創作」とはなんなのかと。僕はメロディだけではなくて、作品がつくられる過程こそが創作だと思ったんですね。
(中略)
普通に聞いたら単調でずっと同じメロディを繰り返している曲ですけど、聴いたらわかるように、いろんな音が入っていて、各々の主旋律を、様々にサンプリング音がなぞってるんですね。
一般的には音程を持っていないと言われる音を集めて、それに無理やり音程を持たせて、あのメロディをなぞらせてるんです。
僕はずっと、世の中にある創作物と言われるものがずっと、世の中にたくさんある中で、本当に初めて流れる、初めて作られるメロディっていうのは現代には存在しえないということを言ってきたわけですから、それならメロディではなくて、その工程に価値を持たせようということになりますよね。
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つまり、n-bunaは「創作」を「ものをつくるプロセスに美しさも見出すもの」と定義したわけだ。
小説「盗作」を振り返ると、あの主人公は自身の破滅のために盗作を続け、自身の破滅そのものをアートにしようと、創作にしようとしたわけである。
つまり、「盗作」とは「プロセスは問わず、結果論的なもの」と言えることができる。
J-POPではよくある話だがまったく違うアーティストの曲が偶然、同じようなメロディになってしまうことはある。
これはおそらくn-bunaの主張した通り、音楽は突き詰めていくと同じようなメロディが生まれる仕組みになっているのである。
小説「盗作」の主人公も本当に盗作したかどうかは実は描かれていない。ああ見えて誠実に作曲していた可能性はある。オマージュが存在するかもしれないが、盗作とオマージュは違う。
しかし、あの主人公は「わたしは盗作犯です」と言ってしまったから大炎上し、立場を失ってしまった。
今まで彼の曲に救われた人はたくさんいただろうに、彼が「あれは盗作だ」といった瞬間、その感情は憎しみに変わってしまうのである。その感動は、ウソじゃなかったのに。
「盗作」と「創作」の曲の分け方はどうなっているのか?
「盗作」と「創作」はもともとが兄妹作なので、主人公も登場人物も同じだ。
「創作」に入っている「強盗と花束」は「盗作」に入っているべきだし、「盗作」に入っている「レプリカント」は「創作」に入っていてもおかしくない。
では、どう分類されてるのか?
「創作」の曲を分析してみよう。
強盗と花束
この曲は「強盗」で盗んだものであってもそのもの(花束、もしくは家)の価値は少しも下がっていないのでは?という従来の常識を覆すような曲である。
この曲で示したい疑問は「強盗」というプロセスを経ることによってその「花束」の価値と受け取った奥さん(おそらく)の喜びは減じたか?ということである。
プロセスは物の価値を下げない。
その商品が密輸入品だろうと中華製だろうと、必要で、役に立てば買う。
これは「盗作」をしていても人を感動させられていればそれは「創作」たりえたという、主人公が述懐するシーンであると僕は感じる。
春泥棒
これは主人公と奥さんが花見をしているシーンを描いた作品だ。
「春泥棒」というのは桜を散らせる風のことだとn-bunaは言っている。花を奪うから泥棒だ、と。
そして、はらりはらりと桜は舞い散っていき、やがて二枚、一枚、そして葉だけが残る。
これは明確にプロセスの話である。
桜は散ってしまう。いつまでも咲いていてほしいと思いながらも、桜の花びらが舞っている光景を見て、美しいと感じる。それは「春泥棒」なのにね、という話。
ひたすら桜が散っていくさまが美しいとプロセスを丁寧に描写した曲である。
風を食む
この曲はニュースのエンディングでかかっている曲であるがn-bunaは「消費社会に疲れてしまった心を優しく包むような曲」であると言っている。
この曲は消費がテーマである。
貴方だけ 貴方だけ
この希望をわからないんだ
売れ残りの心でいい
僕にとっては美しい
この曲は人の心に値段がつけられ、値引きのシールを張られるという比喩がある。
人にさえ現代社会では値段をつけられる。でも、僕にとってはあなたの心はどんなものより価値がるもので、お金で買えるものではない。
口を開けて歌いだす
いま、あなたは風を食む
冬ごもり 春が先
貴方の歌だけが聞こえる
いま、口ずさむ
貴方だけ
この曲はおそらく亡くなった奥さんの曲だ。
”あなた”が口を開けて歌いだし、風を食む。
それは美しい歌となって私の心を揺さぶる。
だけど、そこにわたしはもういない。
貴方の歌だけがそこにある。
風を食んで、消費して、歌われた歌に救われる、プロセスの話。
嘘月
君の目を覚えていない
君の口を描いていない
ものひとつさえ言わないまま
君を待っていない
君の鼻を知っていない
君の頬を想っていない
さよならすら言わないまま
君は夜になっていく
奥さんを亡くした主人公はずっとその喪失を抱え、「花の亡霊」を見て生きてきた。
だけど、「夜を待つ」ことに疲れた主人公は、奥さんを待つことを辞める。
全てを忘れて、手の届かない夜になっていく奥さんをただ見送る。
徐々に記憶があいまいになり、忘れていく、プロセスの歌。
送別の歌。
果たして彼は彼女の死を本当の意味で乗り越えられたのだろうか?
あるいはここから彼の新たな人生が「創作」されるのだろうか?
まとめ
n-bunaが「盗作」というコンセプトを思いついたのはサブスクによって音楽が消費されるものになったからだろう。
今回の「創作」には特別版があり、「中身の入っていないCD」が売られている。
サブスクで聴けるからCDはいらないよね?でもモノとしてほしんだよね?じゃあ、CDだけあげるね。
n-bunaはとことん底意地が悪い。だけど、これが50年先にバンクシーと並ぶ芸術になっているかもしれない。
n-bunaほど音楽に「芸術性」と「プロセス」を持ち込む人はいないと思う。
彼のコンセプトには誰も追いつけない。
僕らの思考を凌駕するスピードでコンテンツをつくり、疑問を投げかける。
僕たちはそれについて考えることしかできない。
考えて、「音楽の価値はどこにあるのか?」という命題に、リスナーとして議論の席につかなければならないのだ。
それがヨルシカファンとしての使命である。