唄が聞こえる。
その唄はどこか懐かしい響きがする。
唄は誰かの鼻歌で紡がれている。透き通るような、天まで昇らんとする声。
目を開ける。
そこは自分の知らない場所だった。どこにでもあるような木造の家の廊下。知らない他人の家の匂い。だけど、どこか懐かしさを感じている自分がいる。僕はここに来たことがあるのかもしれない。一度ではなく、何度も。
それでも、どうしてかそこがどこかなのかはわからない。記憶の隅に密かに眠っている景色。
唄のする方へ歩み寄っていく。
唄は廊下を進んで右手奥の部屋から響いてくる。ギシギシと歪む床をゆっくりと歩いてその部屋へと向かう。
扉がある。その扉はどこにでもある何の変哲もない扉。でも、自分にとってはなにか重要な意味のある扉のような気がした。
ゆっくりとその扉を開ける。
唄が止む。
そこにいたのは、長い灰色の髪の毛をなびかせた一人の少女だった。
少女は驚きを隠せない様子でただ口をぽかんと開けている。そして、首を傾げる。
「あなたは、誰?」
そこで目が覚める。
目を開けるとそこは見知った自分の部屋の天井だった。今も夢の中で聞いた唄が耳の奥で響いている。あの可憐な少女のことが目に焼き付いている。
それでもあれは夢だったのだ。確かな実在感を持った夢。
鳴り響くアラームを止め、伸びをする。
なにはともあれ、僕は自分の一日をはじめなければならない。
階段を降りて洗面所に向かう。顔を洗うと目が冷め、夢のことは一度忘れてしまおう、あれはただの夢だったのだから、と整理がついた。
鏡を見て、自分の顔に異常がないか確認する。大丈夫だ、昨日と同じいつもの自分だ。
髭を剃る。まだ一七歳だが最近、髭が目立つようになってきた。電気シェーバーを使うほどでもないのでカミソリを使っている。肌が弱いのでジェルを塗って丁寧に剃る。よし、綺麗になった。
リビングへと向かう。
パンを焼くいい匂いが漂う。
リビングの扉を開けると、姉さんが朝食の準備をしていた。
「おはよう、姉さん」
「おはよう、夜城(ユキ)」
姉さんは焼き上がったトーストをレンジから取り出し、アチアチ、と言いながら皿に並べる。ハムエッグとサラダを加えて朝食の出来上がりだ。
「さ、朝ご飯、食べてしまいましょ」
姉さんは二人分の朝食を食卓に並べる。
椅子に座って二人で手を合わせ、「いただきます」と言う。
姉さんは僕の実の姉じゃない。
僕は四年前に交通事故に遭い、両親を失った。奇跡的に自分だけ助かったが、その喪失感は計り知れなかった。まだ中学二年生だった僕にとって、両親の存在はあまりに大きなものだった。そのショックからか、事故から一年間は記憶が曖昧で医者からはPTSDだと診断を受けた。
姉さんは引き取り手がいなかった僕を快く受け入れ、女手一つでここまで育て、支えてくれている。聞けば、姉さんも子供の頃に両親を亡くしているらしい。遠い親戚でしかなかった僕を引き取ってくれたのは自分と存在を重ねたせいなのだろう。姉さんはそれまで一人暮らしだった。いきなりの二人暮らしは大変だっただろうが、姉さんは文句一つ言わず、食事を作り、家事を担い、働きに出ている。
人生のどん底にいた自分を救ってくれた姉さんを僕は心から感謝しているし、救われている。あのまま時が止まったままだったら、自分ひとりきりだったら、もしかしたら自殺していたかもしれない、ふと思う時がある。姉さんには感謝してもしきれない。いずれこの恩は返すと心に決めている。僕もあと1年半で卒業だ。そうしたら大学には行かず、働きに出る。そうすれば姉さんを楽にしてあげることができる。どうせ、こんな片田舎にはろくな大学はないんだ。進学よりも就職のほうが自分のためにもなる。姉さんにはまだそのことは伝えていないけれど、僕の意思は固い。自分の人生を救ってくれた人に報いる。受けた恩は倍にして返す。それが今のところの僕の人生の目標だ。
「今日はどうするの?」
今日は七月二十四日。昨日から学校は夏休みに入っている。溜め込むのが嫌な僕はすでに夏休みの課題は片付けてある。あまり外に出る趣味がない僕は夏休みは図書館に通って読書をするのが毎年の楽しみだが、今日は違った。
「今日は理音のお見舞いに行ってくるよ。ほら、あいつ試合で怪我しただろ。市の総合病院に入院してるんだ」
理音は僕の唯一の友達だ。彼女は女子サッカー部のエースで、残念なことに試合中に骨折し、入院していた。
「理音ちゃん、心配ね。あ、じゃあお見舞いの品をなにか買って行かないとね」
姉さんは財布から三千円を取り出し、僕に渡した。
「これでなにかお菓子とか買っていきなさい。礼儀は大切だからね」
僕はありがたく受け取る。
「ありがとう、理音も喜ぶと思うよ」
「友達は大事にしないと、ね」
朝食を食べ終え、僕が後片付けをしている間に姉さんは出勤の準備をする。
メイクをしてスーツに着替える。
「じゃあ、わたし行ってくるから」
「いってらっしゃい」
皿を拭きながら姉さんを見送る。これが僕の毎日だ。
バスに乗り、市立総合病院に着いた。ここは様々な科が融接された街でも一番の病院だ。入院施設も充実しており、入院中は快適に過ごすことができると聞いている。病室は事前に教えてもらっている。確か五階の五〇三号室なはずだ。
エレベーターに乗り五階まで行き、五〇三号室を探す。
途中、あまりにも複雑な造りに迷いながらも病室にたどり着く。
扉は開け放たれていた。どうやら個室ではなく六人部屋のようでそれぞれのベッドはカーテンで仕切られている。中に入ると右手奥のベッドに理音の姿を見つけた。
「よお、夜城。見舞いに来てくれたのか?」
理音は笑顔で片手を上げた。その右足はギプスで固められ、専用の器具で吊り上げられている。
「久しぶり、理音。元気にしてる?」
「ああ、見ての通り。足以外はな」
僕は買ってきた菓子折りを理音に渡す。
「おお。気を遣わせたみたいですまない。ありがとな。お前も食べてけ」
そう言うとベリベリと菓子折りの封を開け、入っていたりんごパイを僕に差し出す。
「ありがとう」と言って二人でりんごパイを食す。少し甘すぎるけど悪い味じゃない。 僕は理音の足を見ながら聞いた。
「それでどうなんだ、足の方は。試合には復帰できそう?」
「そうだな、秋ぐらいにはなんとか。今のところは順調に回復していってるよ。医者もびっくりの回復速度だ」
理音は自慢げに言う。
「ならよかった。理音は女子サッカー部のエースだから。君がいないと部の戦力が下がる」
「おお! 優秀なフォワードだからな! 私が抜けて部も気が抜けてるだろ」
理音は強がっているが、実はインターハイに出られなかったことを強く後悔しているのを僕は知っている。理音はこういうとき、素直になれない性格なのだ。
「サッカー部のみんなも寂しがってたよ。君がいないと練習が静かすぎるから」
わざとインターハイのことには触れないことにした。いつもは地区大会に出られるものの、県大会の決勝で敗北したことも。理音はきっと自分のせいだと思っているのだろう。自分が怪我をしなければ勝てたかもしれない、と。その後悔は拭いきれないかもしれない。だからこそ、ここは明るく振る舞ったほうがいいと思った。
「そうか、そうか。あいつらもしおらしくなるときだってあるんだな。まあ、俺が人一倍うるさいだけか!」
理音は取り繕うように笑う。やっぱりいつもの理音じゃない。いつもの彼女ならこんなふうに大袈裟に笑ったりしない。
僕は今、彼女に何を言ってあげられるだろう?
「理音、あのさ、そんなに強がらなくてもいいんじゃない?」
理音は首を傾げる。
「強がってる? 俺が?」
僕は頷く。
「インターハイは残念だったけどさ、十二月には全国大会もあるんだ。それまでには間に合うんだろう?」
理音の表情に影が差す。
「ああ。全国大会までにはなんとか。でも、ベストなコンディションで出られるかはまた別の問題だ。練習だって周りよりも遅れることになる。なにより入院生活で筋力がなまるのが怖い。それはアスリートにとっては命取りだから」
理音はプロのアスリートを目指している。だから、このタイミングでの骨折はショックだったはずだ。でも、この壁を乗り越えられなければ、たぶん、その夢は叶わない。
「一歩づつ進めばいい。小さな一歩でもそれがあとになって倍になって返ってくる。理音の努力は僕がちゃんと見てるからさ」
今のセリフはちょっと気恥ずかしかったかなと思って目を逸らした。
すると理音は力が抜けたように吹き出した。
「ハハハ! お前がそんな事を言うなんてな! 男前になったじゃねえか!」
そう言って僕の肩をバンバンと叩く。
「痛いよ」
僕が迷惑そうに言うと、理音は小声で、
「ありがとな。元気出た」
と囁いた。
理音の顔も少し赤かった。
「さあ、もう帰んな。お前だって宿題で忙しいだろ」
「え? 宿題なら夏休み前に終わらしたけど」
理音は愕然とした表情で、
「かっー、そうだった、、お前はそういうクソ真面目なやつだった。誰かさんとは違ってね!」
「クソ真面目ってなんだよ! 理音こそ宿題サボるなよ?」
「こっちは怪我で授業出れてないんだっつううの。習ってないことできるかよ」
「じゃあ、教えに来てやろうか?」
「いい、いい、そういうのはいい! いいから早く帰れ!」
そう言って理音は僕を無理やり追い払おうとする。
「わかったよ。帰るから。でも、わからないところあったらLINEで教えるからね」
「わかった、わかった。いいから帰れ」
元気そうな理音を見れたところで僕は病室をあとにしようとしたが、ふと思いついて、
「ノートの写メ送っとこうか?」
と言うと、理音はキレて、
「あー、もう、うるさいな! 早く帰れよ!」
と顔を赤くしながら叫んだ。
これ以上うるさくすると周りの人に迷惑だから大人しく退散するとしよう。
理音の病室を後にする。一階に降りると、エレベーターホールの左手側に丁寧な作りの中庭が見えた。新緑に覆われたその中庭は、太陽に照らされてとても心地よさそうに見えた。少し休憩していくのも悪くない。そう思い、中庭へ出る。
すると小さな音で鼻歌が聞こえてきた。それは、か細く僅かな響きだったが、たしかに僕の耳を捉えた。その唄は、昨日、僕が夢で聞いた唄と寸分たがわなかった。そんな偶然があるだろうか。
鼻歌のする方向へ歩いていくと、そこにはベンチに座り込んだ灰色の髪の少女が佇んでいた。その少女は間違いなく、昨日、僕の夢の中に出てきた少女だ。
僕が何も言えずに立ち尽くしていると、少女がこちらに気づく。はっと息を呑む。そして、傍らにおいていたタブレットを手にとって何かを書き込んでいた。
そして僕に見せる。
そこには綺麗な字でこう書かれていた。
”きのう夢であったよね?”
僕が混乱して何も言えずにいると少女はまた何かを書き出す。
”わたし、声が出せないの”
それで筆談なのか、と納得した。僕は勇気を出して声に出す。
「えっと、夢で会ったっていうのは、どういうこと?」
少女はまたタブレットに書き足す。
”昨日の夢にあなたが出てきた”
そんな偶然なんてあるだろうか。
「えっと、確かに僕の夢にも君とよく似た女の子が出てきたけれど、あれは本当に君だったってこと?」
僕は困惑しながらも尋ねる。
少女はたしかに頷いて、また文字を連ねる。
”わたしたち、同じ夢の中にいたんだよ”
そんなことってあるだろうか。そんな運命みたいなことが。
「君、名前は?」
少女が文字を書く。
”私は夢。あなたは?”
「僕は夜城」
まだ夢の続きを見ているような非現実感を飲み込めないでいる。でも、これは偶然の一致ではないような気がどこかでしていた。
”よろしくね、ユキさん”
夢は優しく微笑んだ。