2021年3月11日。
2011年3月11日からちょうど10年。あの”世界の終わり”からわたしたちは常に歩みと止めず、10年という歳月を乗り切ってきたのだと思います。
僕にとっての3.11の話をします。
2011年3月11日、僕は秋田高専のエコレース部(ソーラーカーを作る高専ならではの部活)部室にて春の大会に向けて作業を行っていました。突然、先輩のケータイが鳴りだし(当時はガラケーで、緊急地震速報は一部の機種にしか搭載されていませんでした)、その10秒後、秋田も激しい揺れに襲われました。部室は機材が多いため、危険だと判断し、外に避難。
まるで電車に揺られているようでした。そのときの秋田の震度は5強。僕たちにとっては未知の数字でした。
揺れが収まってから先生がパソコンでニュースを開いたところ、すでに岩手・宮城・福島に大津波警報が発令されていました。津波の高さは10m以上。わけがわかりませんでした。
その後、電力の供給が立たれ、情報はシャットアウト。現地のことはなにもわからないまま帰路に就いたのですが、信号機がついてないため、道路は大混乱。横断歩道を渡るのにも一苦労でした。
帰宅すると、やはり電気は来ておらず、秋田の3月はまだストーブが必要なため、毛布にくるまって、ポケット式のラジオを聴いていた気がします。だけど、ほとんど報道記者が入れず、津波が到達したという情報は聴いた気がしますが、被害の状況は全くわかりませんでした。
お父さんが6時ころに帰ってきて、3月はまだ日が短いので真っ暗な中、何もすることがなく、暖房もない中、7時くらいには床に就きました。
翌日、7時ごろに我が家の電気が復旧しました。我が家は大きな病院の近くのため、おそらく優先的に電力が回されたのだと思います。
そこで目にしたのは被災地の現状。崩壊した駅、流された電車、更地になったかつての街、そして津波の映像。
わけが分かりませんでした。そこには昨日まで普通に人が暮らしていて、あたり目の日常があったはずなのに、一夜にしてそれがすべて奪われるなんて。
僕は神を憎みました。なぜ、こんな非道なことをしなければならないのか。人間はそんなに愚かなのか?被災地の人たちはなにか悪いことをしたのか?
頭がパンクしそうでした。
津波の映像を見るたびに胸が張り裂けそうになりました。だって、隣県の話ですよ?すぐ近くの人たちが海水にのまれて、なすすべもなく溺れ死んでいったなんて考えたくないじゃないですか。
僕は目と耳をふさぎました。本の世界に逃げて、音楽で耳をふさぎました。それしか自分を守るすべがありませんでした。
僕は3.11から逃げたんです。目を背けた。
そして、3月12日土曜日の3時ころ、ニュース速報で福島第一原発の原子炉建屋が爆発する映像が流れました。唖然としました。
いま、原発はどうなっているのか?東北の人間は安全なのか?それさえもわかりませんでした。とりあえず僕は見なかったことにしました。考えたくなかったから。
これが僕にとっての3.11です。情けないですよね。でも、僕にとっての戦いは実はこれからなのです。
実はエコレース部は2010年の秋に退部届を出していたのですが、10月に出た大会で僕の所属するチームが優勝しており、「まだ取材があるから、もう少しいてくれ」という理由で受理されなかったのです。
実はエコレース部はとてもハードな部活で毎日6時まで制作、土日も返上、夏休み・春休みも返上と、ほとんど休みがありませんでした。さらに学校のレポートも厳しく、ほとんど休む暇もなく勉強・研究・制作に追われていました。
正直、僕の精神は限界に来ていたのだと思います。そう思ったから退部届を出したのに、受理されず、流されるように毎日部活に行っていました。
そこに3.11のショックがあって、僕の精神のバランスは崩れました。そのときは本当に毎日、死の衝動と戦っていました。ギリギリで踏みとどまっているのが現状でした。
そこで、ある日、うつ病チェッカーというアメリカの精神障害認定に使われるDSMに元づいたプログラムをネットで見つけ、「いますぐ精神科を受診してください」という診断を受けます。
正直、抵抗はありましたが、近くの精神科に行ってみることにしました。
そこで受けたのが正式なDSMによる診断テスト。それに僕は見事にひっかかり、「統合失調症」と診断されました。
そうなのです。2011年3月で僕は「精神障害と診断されてから10年」なのです。
そこからの戦いはおそらく割愛したほうがいいと思います。
こちらの記事に書いていますので、よかったら読んでください。
僕は3.11から目をそらしたことをずっと後悔し続けました。
同じ東北の地なのです。ボランティアに行くこともできたと思います。あるいは、観光で訪れるということも。
でも僕はできなかった。やっぱりあの日を思い出してしまいそうで、とにかく怖かった。だから逃げた。
僕にできたのは募金することだけでした。それしかできなかった。
津波の映像を見るたびに、復興の映像を見るたびに、「あの日何もできなかった自分」を思い出して、嫌になるんです。
だから、10年目の節目、2021年3月11日に、僕は”自分にけじめをつけるために”、この曲、「レクイエムは歌わない」を作りました。
この曲は3.11で友人を亡くした18歳の高校生が主人公です。
僕にとって、3.11を語るならば「人の死」を扱わないわけにいきませんでした。
あの日、大切な人を亡くした人の悲しみに寄り添い、そして、11年目からの明日を希望をもって迎えられるようにつくりたかった。
あまり、悩みはしませんでした。むしろするすると制作は進みました。
今回の「ボカロ混声合唱」という発想はすでに去年の9月からありました。10年目のけじめを歌でつけると半年前から決めていたのです。
今回の曲、「レクイエムは歌わない」はあの日、被災したすべての人と、大切な人を亡くしたすべての人へ捧げました。僕のエゴは1mmも入っていません。
だから素直にかけたんだと思います。
どうか、この願い、「明日に希望をもって、過去に引きずられず、いま、ここを必死に生きられますように」というメッセージが伝わりますように。
今の僕には祈ることしかできません。
僕は最善を尽くしました。きっと、届く人には届くとそう信じて、この文を終えたいと思います。
2021年3月11日から2011年3月11日のまだ何物でもない君へ向けて
tokiha