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シン・エヴァ、進撃の巨人完結から考える物語の在り方

シン・エヴァンゲリオンが2021年3月8日に公開され、今なおロングヒットを続けており、このままいくと興行収入100億円の大台に乗りそうだ。鬼滅の400億円には遠く及ばないが、エヴァ作品での最高記録はQの50億円、庵野監督の記録でもシン・ゴジラの80億だったことを考えると、今までのエヴァムーブメントとは一線を画していることはおわかりだろう。

僕は中学二年の夏(なんというタイミングだろう…)2006年ごろにケーブルテレビでエヴァを見て熱狂し、なんとその翌年には「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序」が公開。もちろん、劇場に見に行った。それから10年以上、エヴァを追いかけてきたものとして、エヴァは青春そのものであると断言できる。

エヴァの完結が僕にもたらしたものは大きかった。見終わったとき、「やっとエヴァの呪縛から解放された」と思った。気づかぬうちに僕もまたアスカと同じように子供としての自分を抱えていたのだろう。

また、進撃の巨人が2021年6月9日の単行本34巻をもって、11年の歴史に終止符を打った。これもまた、僕にとっては衝撃的だった。

僕が進撃の巨人を見だしたのは、テレビ放送が始まった2013年4月。あの時の衝撃を僕は一生忘れないだろうと思う。

実は僕はいわゆる連載モノの漫画が苦手で、10巻以上ある漫画は集められたためしがない。しかし、この進撃の巨人だけは一巻も欠かさず、全巻そろっている。それだけ、この漫画の持つエネルギーと革新性が僕の心を打ったからだ。

果たして、この2つの作品が同じ年に完結したのは偶然なのだろうか? 2つの物語の終わり方には共通点があると僕は考える。それについて考察していきたいと思う。

*なお、ネタバレは一切しないので安心していただきたい。

エヴァがエヴァであることを捨てた瞬間

旧劇場版エヴァは庵野監督の自己投影でしかない、ということはみなさん知っていることだろう。アスカが虐殺されるシーンを見てアスカファンが激怒し、2ちゃんに書き込んだ内容をそのまま映像として使い、旧劇は庵野監督の中で現実と虚構(エヴァの世界)が混在する、カオスな空間になり、内容もまた、内省的で自己完結的な閉じた物語として、その幕を下ろした。

しかし、シン・エヴァには今まで、Qまで存在した庵野監督のエゴが欠片も存在しなかった。物語は流れるように、あるべき形へと推移していき、すべての事象に必然性があり、理由と根拠が存在する。今までのように「なぜ、そうなってしまうの?」という疑問など微塵も感じないまま、物語は一つの答えへと収斂していく。

庵野監督はエヴァの登場人物すべてを救おうとした。庵野が登場人物を救おうとするなんて、特に、あの人物を。

しかし、このエヴァという宇宙規模まで拡大した世界を終結させるには、それが必要だったのだ。まるで、その救いが織り込み済みであるかのように。それはまさしく聖書であると言えるだろう。

エヴァとは庵野監督の心の中に広がる世界そのものであり、実際、庵野監督自身も自分の中の一部がキャラクターとして表れていると発言している。すべて心の内側で起こっていることであり、閉じた物語。

しかし、シン・エヴァは最初から最後まで物語として開かれている。どんなキャラクター、あるいはどんな観客でさえも、物語に引きずり込み、心をつかみ、そして救済へと至る、その道筋はまったく排他的でない。今なお、僕のようにエヴァの呪縛に取りつかれている、子供のままの大人を救済する、そのことだけを突きつめて考えられた、庵野が初めて他人のために創った、エゴが1mmも混じっていない純度100%の物語である。それはまるで師匠である宮崎駿作品に見られる特徴である。

そう、これはギフトである。我々、すべてのチルドレンへと向けられた贈り物であり、そして、ある種の謝罪の形である。

庵野監督の作品は、おそらく多くの人の人生を狂わせただろう。僕もそうだったから。そのことをまったく恨んでなどいないけれど、庵野監督にとってはそれがものすごく大きな呪縛であったことは、Qを見ればわかるだろう。

ニアサーとはなんだったのか? あれは庵野監督が壊してしまった90年代アニメの形である。彼は深夜アニメというものの定義を粉々に砕いて、その枠組みを変えてしまった。そして、その重荷をやはり自分の分身であるシンジ君に投影する。

だが、シンジはすべての人類の救済を新たな手段で成し遂げた。全く考えられなかった手法で。

そう、これがいわばシン・エヴァの心臓部、この映画にかかっている魔法である。

映画の言葉を借りるなら「人類の創造力」であり、「意思の力」であり、そして、僕なりの言葉と使うなら、それは「物語の力」だ。

シン・エヴァはすべてあの結末へと至るように、巧妙に逆算され、一つ一つの事象に意味があり、納得できる理由と根拠がある。エヴァという壮大な物語を、自分を触媒として終わらせるのではなく、ある種、キャラクターに導かれて、キャラクターに寄り添って、彼らの気持ちになって、その想いをくみ取り、自然とあの結末へと至ったのだろう。

僕はそれを物語の力と呼ぶ。

物語に導かれて、進撃の巨人は必然的にあの結末になった

進撃の巨人の最終話はかなり衝撃的だった。

というか、それまでの33巻までの流れがあまりにも狂っている。僕自身、読んでいて、これは本当にちゃんと終わるんだろうか?と不安になった。

しかし、進撃の巨人の完結もまた、必然的に導かれるようにあの結末へと至った。

僕は思うのだが、もし最終巻を別の作者が描いていたとしても、みんなあの結末を選んだだろうと思う

なぜなら、あの結末でしか、すべての人類を救済することはできないように、最初からつくりこまれているからだ。

諌山先生が連載開始時にどこまでプロットを練っていたのかは、正直わからない。しかし、おそらくぼんやりとは、あの結末を予想していたことだろうし、そのための伏線は幾重にも張り巡らされている。

すべては仕組まれた物語だった。

そして、エレンのあの行動から幸福な結末へと導くには、あの方法しかなかった。どう考えてもそうだ。

もちろん、あの結末を肯定できない人も中にはいるだろう。すべての読者を納得させる終わり方でないのは確かだ。

しかし、進撃の巨人自体が人を選ぶ作品であることは明白な事実であって、もともとがすべての人に受け入れられたいなど諌山先生は微塵も思っていない。

わかる人がわかればいい。わかる人にだけ伝わればいい。

排他的ではあるが、僕は一読者として、あの終わり方は必然であったと思うし、この先の見えない世界にあって、一つの希望が見えるような、一筋の公明に見えた。

進撃の巨人もまた、物語の必然性として、あの結末に至らざるをえなかったのだ。

物語の力とはなにか?

物語には必然性が必要だ。登場人物が死ぬのなら、その理由と根拠を読者に伝えなければならない。それはある種の合議制で成り立っている世界であると言える。突然、愛されているキャラが死んだら炎上するのは必然。

物語とは、読者と作者を結ぶ、信頼の糸である。

読者は「この人の作品なら安心して読めそう」と思って、作者を信頼して、その物語という船に乗るわけである。

物語をけん引する作者は読者の期待に応え、それに見合った結末へと導かないといけない。

一つの作品というのは作者のクエスチョンから始まることが多い。世界への疑問、懐疑、「なぜ、こうならないんだろう?」「なぜ、みんなこうしないんだ?」そういうある種の理想論、正義、倫理を作者は心の中で日々育て、その種から多くの登場人物を生み、物語という一つの木を育てていく。

作者は頭の中で無数に分岐する枝葉の中から選りすぐれた枝だけを残して、枝を刈り取り、より大きな、優れた幹へと育てていく。

そして、その木が十分に育ち終えたとき、作者の中でようやっとひとつの解答が見つかり、納得して、物語を終える。

しかし、その木が大きな木に育ったのなら、その時、すでに世界は少し形を変えている。

進撃の巨人という「人を食らう巨人」というモチーフは、そのまま鬼滅の刃の「人を食らう鬼」に形を変え、継承されている。

進撃の巨人は10年代カルチャーを代表する作品と言って過言ではない。進撃の巨人が示したのは、「世界は残酷で非道なもの。だけど、それに屈しない限り、わたしたちは決して敗北しない」というメッセージ。

これは今の世の中のテーゼを端的に表していないだろうか?

進撃の巨人は、世の中のルール・常識を、少し変えてしまったのである。

大きな作品とはそれほど影響力のあるものなのだ。

そして、それを僕らは「物語の力」と呼ぶのである。

物語は世界を変える。人を変える。誰かを勇気づける。きっと、物語は今日もどこかで生まれ続け、そして、明日の世界を少しだけ変えていくだろう。

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