7月から書いていた闘病記ですが、母のがんのこともあり、長期的にブログをお休みせざるを得ない状況が続いておりました。今は、動画投稿も終え、時間がありますので、アルバムトップ10とともに並行して書いて、年内に終えたいと思っています。
大学入学するも、偏差値が低すぎて大学に遊びに来てるやつらばっかだった
③の方で、迷った挙句、ノースアジア大学に入学したことは書きました。
しかし、僕はそもそも進学志望ではなかったのでセンター試験の勉強はおろか模試すら受けていない状態でした。それでAOで入れたのもすごいっちゃ、すごいんだけど、受けた中で落ちた人1人しかいませんでしたからね。基本定員割れなんで。
で、そもそも僕はノースアジアの偏差値を知りません。今も知らない(笑)でもたぶん50より下の底辺だと思いますよ。高専で一位二位を争うような人が入るような大学じゃそもそもないんです。
でもその当時は就職率が全国NO.1とかで(これはホント)結構、注目を集めてました。
それに乗せられて入っちゃったら、まぁ、みんな勉強する気がないわけですよ。授業中はずっとソシャゲかおしゃべりかで、私語がうるさくて先生の声が聞こえない…。
僕はまじめに勉強してましたし、勉強はそれなりに楽しかったです。経済学という未知の学問でしたが、社会の動向を知るうえでとても参考になりましたし、今でもそれは生かされています。
特に好きだったのが「経済史」の授業。アダム・スミスの「資本論」からマルクス経済学まで経済の歴史を語る授業なんですが、先生の説明がうまくて好きで。
でも、この授業、大講堂だったんで、みんな私語ばっかりしてて、そんで先生は声が小さいからちっとも聞こえないんです。
もう、その当時、ずっと思ってたんですけど「私語した奴は絞首刑でさらし首だ!」って憎んでましたね。だって僕は真剣に勉強したいし、お前らだって金払ってもらってきてるのになんだその態度は、親に謝れよ、みたいな感じでした。
本当に、いっちゃあ、なんですけどバカばっかりで、大学に遊びに来てるやつらばかりでした。
大学で孤立 一日誰ともしゃべらないなんて普通
そんな態度だったんで、友達ができるわけもなく、ただ一人、もくもくと勉強する日々でした。基本的に周りを見下してたんで、それがいけなかったと今では思うんですけど、でも、大学に遊びに来てるやつらと友達にはなりたくないですよね。
本当に誰ともしゃべらないで家に帰り、また宿題と復習をし、そんな生活でした。
もしかしたらそのときにはもう相当、精神が参ってたのかもしれないですね。
授業中に幻覚・幻聴・妄想の症状が突然現れる
えーっと、この症状が悪化したのが二年生の冬、12月だったんですけど、なぜ、こういうことが起きたのかということについては二つくらい心当たりがあります。
一つ目。一年を終えた時点で僕の成績はトップクラスでした。ほぼ全部「優」評価で文句のつけようのない成績でした。そこで、その成績だったら特待生になれんじゃあないの?と知り合いに言われたんです。
ノースアジアには特待生制度がありまして、これに通ると授業料が免除になります。これは家計のためにもなる!お母さんもきっと喜ぶだろうと勇んで面接に行ったのですが、面接でぼろくそに言われ…。僕は病気のため、イベントや委員会活動をしていなかったため、そのことを追求され、「こりゃあ、ダメだね」ってガチで言われました。そのことがあまりにもショックで…。自分としてはそこらへんの遊んでるガキよりかははるかにましだと思ってたんですけど、大学は自分を認めてくれない、じゃあ、勉強する意味もないんじゃあないの…?となってしまい、5月ごろから急速に体の具合が悪くなりました。
学校から帰ったらすぐに寝てしまい、9時には消灯する生活が続きました。それくらい、疲労していたんです。それはおそらく精神的な疲労だと思います。相談できる友達もいなくて、大学からはこんなにがんばってるのに認めてもらえなくて、ほんと、なんでこんな大学にいるんだろうって思ってましたね。
で、二年生に進級したタイミングでゼミのリーダーを任されるんです。たぶんまじめそうだからっていう理由だけだったと思うんですけど。で、6月の文化祭に出店する食べ物を決めようってことになって、多数決で「たまこんにゃく」になったんです。伝統的にそこのゼミではいつも焼き鳥だったんですが、多数決で決まったので、じゃあ、そうしようと。仕込みが楽だからだったからかな?
で、前日から仕込んで売ったわけですけども、まったく売れない。大量に売れ残り、大赤字。リーダーとしてその責任を重く受け止めてしまい、また、具合が悪くなりました。
そこで、後期からは特別にリーダーを交代してもらいました。そのくらい、まいっていたので。
後期は割とすんなりと授業を受けられていたんですが、12月のある日。
その日は先生の理由で補講となり、なんと7時まで授業でした。たしか夕方から予定がすっからかんで、大学で暇を持て余していて。で、授業が始まったんです。6時とかなんでもう周り真っ暗ですよ。その授業は僕が一番受けたかった「哲学」の授業でとても真剣に聞いていました。
そしたら、どんどん緊張感が高まっていって、脳に血液がガーって流れ込んでくる感じがあって。そしたら、後ろの席の私語をしている生徒が僕を殺そうとしてるんじゃないかと思えてきて。本当にそう思うんですよ。もう、殺される!みたいな。で、廊下の欄間から天井に張り付いているクモのような女の妖怪の姿が見えて、もうこれはダメだ、と思いました。でも、「具合が悪いので帰ります」とも言えなくて、結局、授業はすべて受けました。
で、本来なら大学からシャトルバスで秋田駅に迎えるんですけど、人がいっぱいで怖くて乗れなくて。ノースアジアって駅から徒歩30分かかるんです。でもシャトルバスは高校生も利用するので、いつも超満員で、それが嫌で、いつも歩いていました。その日は雪も降っていて、バスにも乗れなくて、今にも後ろから刺されるんじゃないかって怖くて。お母さんに電話したんですけど、迎えには来れないみたいで。それで、よくわからないバスに乗って、そこから歩いてなんとか家にたどり着きました。
そこからもう混迷状態。すぐ病院に行って。で、入院しますか?って聞かれたんです。僕、その当時、入院に憧れみたいなものを感じてました。外界から隔離されて、誰も僕のことを批判しないで、何もしなくてよくて。そんな後ろ向きな希望しか持てなかった。それくらい、僕の心はもうボロボロだったんです。
それで、結局、任意入院という形になりました。
地獄の入院生活 けどたった6日
自分で入院したわけだけど、なんか思ってたのと違うぞってすぐなりました。まず、扉は二重扉でロックされてるし、個室にテレビはないし、明らかに頭おかしい人たちばっかりだし、イヤホンも充電器も許可をもらわなきゃ使えない。こんなんで自殺できるわけないでしょとか思いながらも従ってました。
お母さんから本を持ってきてもらって、ひたすら音楽を聴いて、でも、テレビのあるリビングには周りの人が怖くていけなくて、ひたすらベッドで過ごしました。あれは本当につらかった。なんでこんなところに閉じ込められなきゃいけないんだ。まぁ、自分で望んで入ったので自業自得ですが。
それで、何度も早く退院させてください!って懇願して6日くらいで退院しました。お母さんも二度とあんな体験はしたくないって言ってます。僕も同じです。
あんなの刑務所と一緒ですよ。人として扱われてないと思いました。入院って言ってもただ時間通りにご飯とお薬が来るだけで、看護師は何もしない。これじゃあ、家にいるのと変わりねぇじゃねぇか、と。
閉鎖病棟の問題はこの記事でも扱いましたので併読してもらえるとありがたいです。とにかく人間扱いされてない感じが強かったですね。
ノースアジア大学を退学 でもそれで正しかったかもしれない
結局、二年間休学した後、ノースアジアは退学しました。とてもあんな環境では勉強できないと思ったし、病気もひどくなる一方で復学なんてできなかった。
でも、それでよかったんだと思います。僕は進学という人生で一番の選択をなんとなくで選んでしまったんです。もう、ここで自分の意思のなさとか、心の弱さが出てしまっていると思います。だから、退学は正しい判断だったと今でも思っています。
現在、僕は放送大学に在籍していますが、ノースアジアでの単位が認められ、3年次編入がかないました。放送大学は先生に質問することがむずかしく、自分でなんとかしなければいけないのがつらいところですが、それでも病気や仕事を両立させてなんとかやってます。
ここで言いたいのは、自分がやりたいと思っていること、それをやり通せってことです。嘘をついた人生はやがて崩壊に向かいます。本当に自分のやりたいこと、それを見つけて、極めていくのが本当の人生だと思います。
あなたが本当にやりたいことはなんですか?
それをやる自由があなたにはあります。
とても勇気のいることだけど、きっとあなたの人生を豊かにしてくれます。
僕みたいに中途半端な決断で人生をふいにしないでください。