前の話↓
自分のベッドに入ると、疲れているせいか、すぐに眠気がやってきた。僕はまたあの夢の中へと落ちていく。
「ユキさん! 今日、先生に相談したらね、明日にでも退院していいって!」
夢は嬉しそうにコーヒーを沸かしながら話しかけてきた。いかにも上機嫌で小さく鼻歌が聞こえてくる。
「退院って、そんなにすぐで大丈夫なの?」
僕が疑問に思って聞くと、夢は
「これからも定期的に通院することになるけど、いまのままなら大丈夫だろうって。保護者が見つかってよかったねって先生も言ってくれたよ」
夢はそう言って、僕の目の前に淹れたての湯気の立つ白いコーヒーカップを置いた。「ありがとう」と言って口をつける。夢の淹れるコーヒーは美味しい。ただのインスタントだけど、温もりが伝わってくる気がする。
夢は僕の右隣に自分の黒いマグカップを持って座る。
「ユキさんの方はどう? 準備は進んでる?」
僕は今日、家庭裁判所への申し立てと夢の個室の準備をしたことを話した。
「なんだか迷惑かけちゃったね」
「迷惑だなんてそんな」
「でも、ユキさん、なんだか疲れて見えるよ?」
そう言われて、顔に出てるかなと思って少し恥ずかしくなった。
「あんまり家具の組み立てとか得意じゃなくてね。変な筋肉を使っちゃたんだよ」
そう言うと夢はくすくすと笑った。
「じゃあ、予定通り、わたしも明日から朝倉家の仲間入りだね」
そう言って夢は遠くを見つめる。
ここまで本当に長かった。夢はあの病室で三年も一人ぼっちだった。高校にも行けず、友達もいなくて、周りには世話をしてくれる看護師さんしかいない。それは一体どんな気持ちだったのだろう。どれほどの孤独をこの少女は抱えていたのだろうか? それも今日で終わりだ。夢は夜伽姓を捨てて、朝倉夢になる。僕の義理の妹。僕は彼女のことをこれからも守り続けていけるだろうか?
ふと疑問に思ったことを口にする。
「ねえ、夢って姉さんと喋るとき、いつもあんな感じなの?」
僕は今日の昼間の姉さんと夢の会話を思い返していた。これから家族になるのに、あれじゃちょっと先が思いやられる。
「うーん……、わたし、苦手な人にはあんまり心を開かないようにしてるから……。ちょっと冷たすぎたかな?」
氷のように冷たかったとも。恐怖を感じるくらいに。
「姉さんのどこが苦手なの?」
夢は首を傾げて思案する。
「うーん……、人の気持ちをわかった気になってるところ?」
……、このふたり、絶望的にダメかもしれない。相性が悪すぎる。僕が緩衝材にならないとまともにコミュニケーションも取れないかもしれない。また僕の重荷が増えた気がする。
「ねえ、ユキさん」
夢は僕の顔を覗き込んで言う。
「ユキさんってまだ夏休みだよね?」
「そうだよ。八月の下旬までは休み」
「じゃあさ……、その……」
夢はそこで照れたように顔を赤らめた。
「またどこかに遊びに行かない?」
その一言に僕は少し動揺してしまった。
「それは……」
僕が言葉を濁していると、夢が慌てて訂正する。
「あ、違うの。これは家族としてっていう意味。まだ夏らしいことほとんどできてないし、わたしも病院の外で夏を迎えるの、初めてだから」
夢はやや早口でまくしたてる。
僕らの関係性はまだぎこちない。まだ義理の兄妹であることを完全には受け入れられていないのだ。つい先日まで僕らはただの友達だった。だから、こんなすれ違いが起きてしまう。いまのは完全に僕の早とちりだった。
少しだけ気まずい雰囲気になり、重い沈黙が数秒間続く。沈黙を破ったのは夢だった。
「なんか、ごめんね、わたしのせいで気を遣わせてばっかりで」
僕は慌てて否定する。
「そんな……。今のは、たぶん、僕が悪いよ」
「でも、わたしがあんなこと言ってなかったら、ユキさん、きっともう少し接しやすかったでしょ?」
夢は自嘲気味に笑ってそう嘯く。
「あんなこと」というのは「忘れて」と言われた告白のことだ。僕らは未だにその言葉の重みを計りかねている。どう接したらいいかわからない。距離感を窺ってしまう。
明日から僕らは正真正銘の兄妹になるのに、これじゃあ先が思いやられる。
いっそ、夢の言うとおりに綺麗さっぱり忘れられたらよかった。でも、僕にはそんなことはできない。あの日、ここで泣きながら本音を口にした夢の言葉を蔑ろにすることはしたくなかった。
「ねえ、夢」
「なに?」
夢は顔を上げる。
「夢はまだ僕のことが好きなの?」
夢は驚いたように目を見開き、目をぱちくりさせている。あまりに直球な質問に困惑させてしまったかもしれない。でも、今後の二人に関わる大切な質問だった。
「正直に答えて」
僕は真剣な眼差しで夢の瞳を見つめる。夢は少し動揺しているようだった。その質問の意図が掴めないというように瞳が揺れていた。
「……、なんで、そんなこと」
「そんなことじゃない」
「忘れてって言ったよね?」
「でも、夢は忘れられてないんでしょ?」
夢は返答に窮したように下を向く。
「それでいいよ」
僕のその一言に心底、驚いたように夢はぱっと顔を上げる。その言葉の真意を確かめるように眉根には深いシワが刻まれていた。
「どういう意味?」
「僕らは血はつながっていない。義理の兄妹だろうと、血がつながっていない以上はどう思ってたって誰も何も言わない」
夢は僕の瞳をまっすぐに見つめる。一振りの感情の揺れも見逃さないように。
「君が僕のことを好いていてもいい。僕はその気持ちも含めて、君を受け止める」
夢は首を振る。
「でも、ユキさんは、その気持ちに応えてくれないんでしょ?」
「そうだよ」
僕は頷く。
「僕は君を義理だとしても妹だと思ってる。その気持ちは変わらない。それでも、君がどう思うかは自由だ。無理に兄妹だからとか、思わなくていい。僕が好きなら、その気持ちを抱えたままでいい。僕はその気持ちごと、君を受け入れるつもりなんだ」
それが今の僕の答えだった。何の解決にもなっていないのかもしれない。むしろ夢を苦しめるのかもしれない。それでも、人の気持ちは、心は誰にも縛れないはずだ。誰かに否定されても、後ろめたい目で見られても、全部含めて、僕は君を家族として幸せにするつもりなんだ。
夢は「そう」と一言呟いて、視線をそらす。
「わたしは、きっとあなたを困らせる」
「うん」
「それでもあなたがそれでいいって言うなら、わたしはあなたを想い続けたい」
「うん」
「たとえ、それが叶わなくても。そう思うことが、わたしの支えになるから」
「それでいいよ」
それが夢の出した答えなんだね、と僕は心の底で思った。
「その気持も含めて、僕は君を守るよ」
夢の手を握りしめる。そのあたたかな温もりを確かめる。やがて、夢も僕の手を握り返した。
「ありがとう」
夢は俯いたまま、ただその一言だけ口にして、ずっと黙っていた。
もうすぐ夜が明ける。この夢も覚める。僕たちは正しい答えを手にしたのだろうか? むしろ苦難の道を選び取った気がする。それでも、今の自分達にふさわしい選択をしたのだと、僕は胸を張って言える。
