夢は筆談だと厄介だからという理由でLINEを交換しようといい、以後は僕が口頭で話し、夢がLINEで返すようにした。
「これまでも夢と現実がリンクするようなことってあった?」
”ううん。ユキさんが初めて”
「僕の夢では君はどこか知らない家のリビングで唄を口ずさんでいた。それは君の記憶と一致する?」
”うん。私が歌っていたらあなたが迷い込んできた”
どうやら本当に僕達は同じ夢の中にいて、時間を共有していたようだった。
そうだ、唄だ。あの唄はどこかで聞いたような懐かしい響きがした。あの唄は何だったんだろう?
「君が歌っていた唄なんだけど、どこかで聞き覚えがあるような気がしたんだ。あの唄はどこで覚えたんだろう?」
”わからない。わたし、記憶喪失なの”
「記憶喪失?」
突然の告白に動揺してしまう。
”わたし、三年前にこれまで生きてきた記憶すべてを失ってしまったの”
”これまで生きてきた記憶すべて”。その言葉の重みに圧倒される。
「それは、どうして?」
”お父さんが死んじゃって、そのショックで、って周りの人は言ってたけど、わたしにはわからない。お父さんの記憶もないから”
「本当に何も覚えてないの?」
”うん。お母さんとお父さんの顔も覚えてない。小さい頃の記憶もない。わたし、ほんとうの意味で空っぽになってしまったの”
それはどれほどの痛みを伴うものなのだろう。僕には想像もつかない。今まで生きてきた記憶すべてを奪われ、文字通り空っぽの状態で放り出され、これからの人生を生きていかなくてはならない。そこには過去も未来もありはしない。
「お母さんはいないの?」
僕は一縷の希望を求めるように彼女に聞いた。
”いない。うち、父子家庭だったみたいで。だから、一人ぼっち”
夢は俯いたまま顔を上げない。そうか、君も親をなくしたのか。その悲しみは僕にも理解できる。身よりもなく一人孤独に見上げた病院の虚しく広がる空を覚えている。
「僕も四年前に両親を亡くしたんだ。そのときは絶望で眼の前が真っ暗になったけれど、なんとか生きているよ」
すると、夢は顔を上げて、僕の瞳を覗き込んだ。まるで、そこに孤独の色を見透かすみたいに。
”そっか。じゃあ、お互い、一人ぼっちだね”
夢は少し悲しげに微笑んだ。自分なら彼女の孤独を少しでも埋めることができのだろうか? そうだと嬉しい。
”ユキさんは今、いくつ?”
夢は居心地悪そうに話題を変えた。
「先月で十七になった。高校二年生だ」
”そうなんだ。わたしは十六。ひとつ下だね”
夢はこちらを見て微笑む。だけど、すぐに視線をそらして俯いた
”わたし、学校行ってないんだ。だから羨ましい”
「なにか、理由があるの?」
”わたし、ここに入院してるんだ。だから、学校にはいけない”
夢の表情が暗くなる。
”わたし、声が出せないでしょ。それって心因的なものなんだって。だから治療しなくちゃいけない。記憶喪失も心から来たものだって”
夢はスマホを握ったまま俯いている。その手が震えているように見えた。
僕は何も言うことでできなかった。一体どんな言葉を送れるというのだろう。
”わたし、そろそろ病棟に戻らなくちゃ”
夢はスマホから顔を上げ立ち上がった。その顔は無理に笑っているように見えた。
「毎日、ここに来るよ」
夢は首を傾げる。
「ほら、今はちょうど学校も夏休みだしさ。待っていてくれたら嬉しい」
ずいぶん恥ずかしいセリフだなと言ってから思って顔が赤くなった。
夢はぱっと顔が明るくなってスマホに急いでメッセージを入力し始めた。
”嬉しい! また会えるんだね”
「そうだよ。また会おう。もっと話をしよう」
”うん。楽しみにしてるね”
夢は満面の笑みを浮かべていた。
そして、はっと思いついたようにメッセージを送る。
”でもきっと、今夜も夢で会えるよ”
僕がなにか言う前に彼女は手を振りながら病棟へ戻っていった。
今夜も夢で会える、その言葉は本当になった。
目が覚めると、昨日と同じ知らない廊下に佇んでいる。昨日見たのと同じ光景。
そして、唄が響いている。
その唄は右手奥の部屋から響いている。
同じようにその扉を開ける。
そこには今日、会ったばかりの夢がいた。
「ユキさん! ほらやっぱり夢で会えたでしょ」
僕はその声に驚いてしまった。
「君、声が出せないはずじゃ……」
夢は不思議そうに首を傾げる。
「うん。そうなんだけど、夢の中では話せるみたい」
そういうこともあるのか。僕が立ち尽くしていると夢は自分の座っているソファの隣を勧めた。ここはリビングルームのようでテレビとテーブル、ソファなど一通りの家具が揃っていた。
僕は夢の隣に座る。
「前から聞いてみたかったんだけど、この家って誰のものなんだろう?」
僕は夢に尋ねる。
夢は首をふる。
「私にもわからない。でも、なんだか安心する気がする」
確かに、この家の雰囲気にはどこか懐かしさを覚えずにはいられなかった。
「君はいつもここにいるの?」
夢は頷く。
「記憶を失ってからずっと。夢を見る度、いつもここにいる。でも、誰かが来たのはユキさんが初めて。だから、嬉しい」
夢は破顔して笑う。彼女がそんなふうに笑うなんて思ってもみなかった。自分の声で話せる分、少しテンションが高いらしい。
「そうだ、なにか飲む?」
夢は思い立ったように立ち上がった。
キッチンに向かうとインスタントコーヒーの瓶を手に取る。
「ここ、なんでか飲み物も食べ物もあるんだよね。それで朝がくるのを待つの。なかなか楽しいよ」
「じゃあ、ブラックコーヒーをもらおうかな」
「あ、ユキさんブラックなんだ。わたしはミルク混ぜないと飲めないんだ」
夢はインスタントコーヒーを二杯作り、一方に大量のミルクを混ぜた。マグカップを二つ持って片方のブラックの方を僕に渡した。
「ありがとう」
二人でコーヒーを一口飲む。静かで穏やかな時間だった。いつまでもここにいたい、と思うのは僕がこの少女に親近感を抱いているからだろうか? 両親の不在という共通の悲しみを背負ったものとして。
彼女には家族は一人もいない。そして孤独に入院生活を送っている。誰かが見舞いに訪れることもない。その点だけが僕と違うところだった。
「病院での生活は苦しくない?」
夢は首をふる。
「ううん。看護師さんも優しいし、最初は雰囲気に戸惑ったけど、一応、外出届も受理されるし。わたしね、たまにあそこを抜け出して学校に行くの」
「学校?」
「そう。私には関係のない学校。だけど、もしかしたら私が通うことになっていたかもしれない学校。その近くに行ってね、まるでそこの高校の生徒のふりをするの。制服もないんだけど、そうなった気持ちで周りを歩くの。あの子とは友達になれそうだなとか、あの人はちょっと苦手かもなとか考えながら。それで、みんな高校に入っていくんだけど、私だけ取り残される。で、門の外からみんなが授業を受けているのを眺めるの。本当はわたしもあの中にいたかもしれないんだって。それだけが、私の唯一の楽しみなの」
そういって夢は微笑んだが、僕は何も返せなかった。それほどまでの空白を、僕は味わったことがあるだろうか。孤独を、渇望を、羨望を。僕はもうすでに報われてしまっている。だけど、この子はそうではない。僕と夢は一緒だなんて口が裂けても言えなかった。
「ユキさんの楽しみはなに?」
夢は楽しげに聞いてくる。誰かと話すのが心底うれしいのだろう。
「僕は……、音楽を聴いたり、本を読んだりすることかな」
「どんな音楽を聴くの? どんな本?」
「そうだなあ……。クラシックが好きだよ。姉さんが好きでよくCDを買ってくるんだ。家ではいつもショパンかベートーヴェンかモーツァルトがかかってるよ。本は、ミステリが好きだよ。森博嗣とか東野圭吾とか」
「お姉さんがいるの?」
「そう。血はつながってないんだけど、今は僕の保護者をしてくれている」
それを聞いて夢は眉をひそめた。
「血がつながってない?」
そうか、姉さんのことはあのとき話していなかった。
「四年前に交通事故にあったんだ。そこで両親は死んだ。僕だけ奇跡的に助かってね。姉さんは遠縁の親戚で身寄りのない僕を引き取ってくれたんだ。よく女手一つで僕を育ててくれてるなと思うよ。本当に感謝してる」
夢は顔をそらしながら一言、つぶやいた。
「そっか、君は一人じゃないんだね」
それはどこまでも悲しみの色をたたえていた。
僕が何か言う前に夢は立ち上がって言った。
「そろそろ、夜が明けるよ。この夢も覚める」
その顔はどこか寂しげだった。
「また会おうね、待ってるよ。ユキさん」
最後に笑って言った。だけど、その顔は一種の失望を内包しているように僕には見えた。
目が覚める。いつもと同じ天井が広がっている。空は明るく、小鳥がさえずっていた。
僕はあのとき、何を言えばよかったのだろう。夢は両親のいない僕のことを似た者同士だと思っていたのだろう。でも、そこには、越えられない一線があったのだ。彼女はどこまでも孤独で、だけど、僕には家族がいる。友達がいる。いっそ、姉のことは話すべきではなかったのかもしれない。
いや、そういう問題ではない。僕が彼女の言葉に何も返せなかったことが問題なのだ。
彼女の本物でまっさらな孤独に、慰めの言葉など言えようはずがない。だけど、やっぱりこういうべきだったのだ。
「僕たちはもう友達だ。君はもう一人じゃない」
言いそびれた言葉を抱えたまま、寂れた日曜日が始まった。
僕は夢と約束した通り、また病院に来ていた。昨日言えなかったことを伝えるため。夢が一人じゃないことを証明するため。僕は昨日、夢と出会った病院の中庭に向かった。しかし、そこに夢の姿はなく、仕方なく病室を探すことにした。
精神科の病棟のナースセンターに行き、夢の病室を尋ねた。対応してくれたのは妙齢のいかにも仕事慣れした看護婦さんで、僕が夢のことを尋ねると目を丸くしていた。
「夢ちゃんに来客なんて珍しい」
そう言いながらも僕を病室へと案内してくれた。
案内されたのは、六人部屋の病室だった。夢は左手中央のベッドで本を読んでいた。
僕が声を掛けると、驚きに目を丸くした。慌ててスマートフォンを手に取る。そうだった、現実の夢は声が出せないんだった。昨日の夢の中では声が出せていたからすっかり失念していた。
夢は慌てながらLINEに何かを入力していた。
ピコン、と僕のスマホが鳴り、通知を知らせる。
そこにはこう書かれていた。
”本当に来てくれたの?”
「ああ。約束したからね」
”わざわざ病室まで来なくても良かったのに”
「君が中庭にいないから」
”ごめん。今日は検査があったんだ”
「じゃあ、日を改めたほうが良かったかな」
すると夢はぶんぶんと首を振った。
”ううん。来てくれてすごく嬉しい”
夢は満面の笑みを浮かべていた。来た甲斐があった。
「今日は伝えておきたいことがあったんだ」
夢は首を傾げる。
言葉にするのは気恥ずかしかったが、それでもここまで来たんだ。きちんと伝えるべきだと思った。
「僕らはさ、とても奇妙な出会いだったけれど、二人とも親がいなくて、孤独を抱えていて。きっといろんな偶然が重なって出会えたんだと思う」
夢は真剣な眼差しで僕の目を見ている。細かな感情の揺らぎも見逃さないように。
「たしかに僕には姉さんがいるけど、それでも僕の胸にはぽっかり穴が空いている。死んだ両親の顔が思い浮かぶこともある。自分はなぜあのとき死ねなかったんだって。いっそそのほうが良かったかもしれない。だけど、僕らは生きていかなくちゃいけない。生ある限り、人生は続いていくんだ。その孤独はきっと君も同じなんじゃないかと思ったんだ。親を失って、希望もなくて、それでも懸命に生きようともがいてる。僕らはさ、きっと一緒なんだよ」
夢はただじっと僕の瞳を見つめていた。その真意を確かめるように。
「だからさ、僕らはもう、友達だ」
やっとその一言が言えた。友達、そのことが伝えたいだけだったのに、随分と遠回りな言い方をしてしまった。それでも、君に信じてもらうためには必要な遠回りだった。
夢は俯いてスマホに入力している。その表情はここからは見えない。
ピコン、と通知が鳴る。
そこにはこう書かれていた。
”ありがとう。もう私、一人じゃないね”
顔を上げると、夢は薄っすらと涙ぐみながら満面の笑みをたたえていた。よかった、ちゃんと伝わったんだ。
