前の話↓
朝、病院の方から連絡が来て、夢の退院はお昼すぎになると連絡があった。ついては午後二時ころに迎えに来てほしい、と。
そうとなれば準備を急がなければならない。夢の個室は昨日準備したからいいとして、まずは家の掃除だ。人を迎え入れるのだからできる限り細かいところまでやっておきたい。それから夕食の用意。今日の夕食は夢を迎えての初めての食事だから、姉さんは気合が入っていた。「わたし、今から買い出しに行ってくるから。夜城は家の掃除お願い!」そう言ってすぐにスーパーへと急いでいった。
僕は家の各部屋に掃除機をかけ、特に元物置の夢の部屋は丹念に掃除をした。それから洗剤を使って風呂の掃除。カビ取りまで丹念に行う。そして玄関の掃除。玄関は家の顔だ。ここが汚れていたら印象が悪い。
一通り掃除を終えると、すでに姉さんは夕食の仕込みにかかっていた。食材を見るとだいぶ手の込んだものを作るらしい。掃除を終えた僕を見ると姉さんは「夜城! あなたも手伝って! 時間ないんだから!」と慌ただしそうに言う。あまり料理は得意ではないのだが、野菜の皮むきや食材を切るくらいだったら僕にだってできる。姉さんはこの一食にすべてをかける!ぐらいの気持ちで真剣に調理していて、よほど夢が来るのが嬉しいのだろう。横で見ていて、少しだけ微笑ましく感じる。
ある程度、仕込みは終えて、軽く昼食を取ればもう約束の二時が近づいていた。
姉さんの運転で病院へと向かう。
夢は退院の準備を済ませて、僕たちが来るのを待っていた。
僕と目が合うと、にっこり微笑んでスマホにメッセージを打つ。
”今日からよろしくね、ユキさん!”
「うん。よろしく。色々不安もあると思うけど少しずつ慣れていこう」
夢はこの病室で三年も過ごしたというのに荷物は手提げバックに入るほどしかなかった。いくつかの服と何冊かの本だけ。
夢は病室を立ち去るときに、一度だけ振り返り、懐かしそうに自分のベッドを眺めていた。その孤独な三年間を自分なりに振り返っているのだろう。きっと孤独に一人涙した日もあっただろう。今日、夢は新たな一歩を踏み出す。新しい家で、新しい家族と生活を始める。だから、その三年にも、きっと意味はあったのだ。夢はすぐに前を向き、歩き出した。
姉さんの運転する車に乗り込み、自宅まで移動する。
夢は車の窓ガラスから興味深そうに街の風景を眺めている。
ピコンとLINEの通知音が鳴った。
”ユキさんのお家ってどの辺なの?”
「そんなに病院からは離れてないよ。駅前からはちょっと外れたところにあるけど」
夢は納得したように頷くと、また窓ガラスに視線を移し、物珍しそうに町並みを見ていた。
夢はほとんど病院から出たことがないから、今まで通ったことのない道が新鮮なのだろう。
姉さんの車がマンションの駐車場に入る。
僕らの家は中心街から少し外れた閑静な住宅街のマンションの一室だ。働き手が姉さんしかいないため、当然、物件は賃貸で、それほど広いわけではないが、二人で住むにはちょうどよかった。偶然にも一部屋空いていて、本当に良かったと思う。これからは三人でここに住まうわけで、若干手狭にはなると思うが、賑やかになるだけマシというものだ。
マンションの階段を登り、姉さんが扉を開ける。
「ようこそ、朝倉家へ!」
姉さんは笑顔で夢を迎え入れる。夢はひとつ一礼をしてから、我が家の敷居をまたいだ。
夢は僕らの家を一通り見回してから、スマホになにやら書き込んでいる。
”なかなかいいお家だね”
夢は微笑む。その顔を見て、少し安心する。まだ姉さんを警戒している感じはするが、この家の雰囲気に親近感を覚えたようだ。
姉さんは夢を個室へと案内する。
「夢ちゃんのお部屋はこっち。隣が夜城の部屋ね。昨日まで物置だったから家具もベッドくらいしかないけど、必要なものがあったら取り寄せるから言ってね。じゃあ、わたし、夕飯の支度してるから」
そう言って慌ただしく姉さんはキッチンに戻っていった。
「とりあえず、荷物を置こうか。クローゼットはないけど、使ってないハンガーラックがあったからそれを使って。本棚はこっち」
といっても夢が病院から持ち込んだ私物は少ししかなかったからすぐに片付いた。
夢は自分のベッドに腰掛け、これから自分の部屋となる一室を見回した。
”悪くない部屋だね”
「そうだったら嬉しいな。昨日、筋肉痛になりながら片付けた甲斐があるよ」
夢はクスクスと笑う。
”ねぇ、ユキさんの部屋も見せてもらっていい?”
「いいよ。そんなに面白くないと思うけど」
隣の僕の部屋に移動する。
扉を開けるとき、そういえば誰かに自分の部屋を見せるのって初めてかも、と頭の隅で思った。
僕の部屋はいたってシンプルで右手奥に勉強机と左手にベッド、それからいくつか本棚があるくらい。本棚には愛読書と姉さんから譲り受けたクラシックとジャズのCDが収められている。
夢はワクワクした表情で僕の部屋を見渡し、すぐに本棚の前で屈んで、しげしげと蔵書を確認していた。さすがは読書家。やっぱり一番に気になるのは本棚の中身らしい。
”村上春樹、好きなの?”
「ああ、長編小説ならだいたい揃ってるかな」
”これ、借りてもいい? ずっと読みたかったんだよね”
そう言って夢が手に取ったのは「海辺のカフカ」上下巻だった。わかってるな。
「いいよ。気になるものがあったら本棚から持っていけばいい。そこにあるのは全部、読み終わったやつだから」
その言葉を聞くやいなや夢は目を輝かせて、本棚の背表紙を眺め始めた。本当に本が好きなんだな。
いくつか本を見繕って、夢はCDの棚を見つける。しげしげと観察したあと、
”このCDって聞ける?”
と聞いてきた。
「ああ、そこにCDコンポがあるから好きなの聞いていいよ」
夢はCDの棚の前で難しい顔をしたあと、
”なにかおすすめはある?”
と聞いてきた。
クラッシック初心者におすすめの曲か……。
「だったらショパンとかは? 聴いたことある?」
夢は首を振る。
「だったら、エチュードとかは有名だけど、そうだな……。ノクターンとかは?」
僕はルービンシュタインの弾いたノクターン集を手に取り、CDデッキにれる。なんとなく夢にはノクターンが似合うと思ったのだ。
部屋にルービンシュタインの華麗で優美なピアノが鳴り響く。僕らはベッドの隅に腰掛けてしばらくその音を楽しんだ。
”クラシックって今まで聞いたことなかったけど、いいね”
夢は僕に笑いかける。
「気に入ってもらえたら何より。またなにか聞きたい曲があったらリクエストしてよ」
夢は満面の笑みで頷いた。
そのとき、リビングから姉さんの
「ご飯にするわよー!」
という声が響いてきた。
