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「宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち」福井晴敏の宇宙観、人類感とは? 愛とは?

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先日、見ようと思っていて停滞していた宇宙戦艦ヤマト2202をすべて見終えた。

僕はわりに涙もろいのだが、映画を見てひとり部屋で嗚咽を漏らしながら泣いてしまったことが二度ある。一つはガンダム00の映画版と、本作の最終章。

まず、ややこしいので説明しておかなければならないが、数年前にテレビ放映された原作の宇宙戦艦ヤマトに忠実なリメイクが「宇宙戦艦ヤマト2199」。本作は、何作かあるヤマト劇場版のうちの一作、「さらば宇宙戦艦ヤマト」を原作としながらもほぼ大幅に書き換えている半オリジナル作品である。

実はこの作品、最初に劇場版7作が連作公開され、その後、テレビ放映も一応されたのだが、東京、大阪、名古屋のみという小規模な放映にとどまり、全国ネットでは放映されなかった。その理由は見てもらえばわかると思う。

本作、あまりにも敵が強すぎる上に数が多すぎる。ほぼ無尽蔵に兵力があるし、波動砲を超える武器を持っている。そしてバタバタ人が死ぬ。重要人物まで在庫処分みたいに死んでいく。そのあまりの残酷さに耐えられなかった人も多かったのだろう。僕が見るのをためらった理由もそこにある。あまりにも希望がなさ過ぎて、重い。テレビ版ヤマトもヤマト一隻のみでイスカンダルへの大航海とガミラス軍との攻勢に打ち勝たなければならないという非常に困難なミッションだったが、波動砲や巧妙な作戦により見事切り抜けていくという痛快さがどこかあった。しかし、本作はずっと負け続ける。そして、これは言ってもいいことだと思うので言ってしまうが、「さらば宇宙戦艦ヤマト」は最後にヤマトが特攻して終わる。そして、その結末はこの映画でも変わらない。しかし、最終話までぜひ見てほしい。そんな結末をあの福井晴敏が許すわけがない。あのオリジナルエンドは報われた気持ちになる。しかし、完全な救いがもたらされるわけではないところがおもしろくもあり、嫌われるところでもあるのだろう。

僕がこの映画を評価したいのは、「愛とは何か」「人類とは何か」「宇宙とは何か」という三つの根源的な問いに福井晴敏なりの解釈で答えを指し示していることである。

まず、一つ目、愛とは何か。主人公の古代進の奥さん、森雪は物語終盤、なぜか記憶をなくしてしまう。理由はわからない。しかし、これが最後に意味を持たせてくる。古代進は、艦長として、ヤマトで特攻することを選んだ。しかし、その船内には森雪が残っていた。雪は古代のことを記憶していない。何も知らない。だから、なぜと古代は問う。雪は、うまく答えられないけれど、記憶がなくても、思いは残っている。わたしはまだ古代君を愛している、と言う。これが、最後のピースになる。ヤマトを敵、ガトランティス軍へと導いたてテレザートが現れ、ヤマトの特攻をもってしてでも破壊できるはずがなかったガトランティスの最終兵器、滅びの箱舟を滅する莫大なエネルギーを与え、二人を高次元宇宙、わかりやすく言えばあの世であり、天国へと二人を導く。そして、今までに亡くなったすべてのヤマトクルーとともに特攻していくのだ。つまり、愛こそがテレザートを呼び出すカギだったのであり、すべての犠牲は意味があって、この状況にならなければ地球を救うことはできなかった。テレザートは言う。「記憶は知識の蓄積にしか過ぎない。それを除いてもなお、人と人との縁、魂のつながりは残る」。愛とは魂と魂との結びつきなのだと。記憶を失って、その人のことを失ってもなお、縁は途切れず、つながっており、愛し続けることができる。それが、福井晴敏の答え。すべての生命は一つの縁で結ばれている。時に傷つけあい、憎しみあい、争うこともある。しかし、人との縁を信じる続ける限り、人類はわかちあい、争いをとめることができる。

二つ目、人類とは何か。人はずっと戦争を続けてきた。それは今も続いている。ヤマト2199で沖田艦長とイスカンダルの姫は「今後一切波動砲を使わないこと」と約束する。そして、本作冒頭で古代は波動砲の引き金をひくことを躊躇する。しかし、打たざるを得なかった。また、本作では「命の選択」が何度も描かれている。ある人を殺せば、これ以上手は出さない。愛する人を守るか、大勢の命を守るか、天秤にかけよと脅迫するのである。そして、古代は一貫して「選ばない」という選択をしてきた。もちろん、なにかが犠牲になる。しかし、彼はそもそも戦いたくなかったのだ。最終決戦においてもなお、ガトランティス軍総統のズォーダ大帝に和平交渉を求めるほどに。彼は愛する人を守ること、正義を守ること、そして人と人とはわかりあえるのだという理想を信じている。最終章において、ゾォーダ大帝の息子が「人類には我々のあずかり知らない感情があり、愛がある。人造人間である我々はそれを学ぶべきだ。まだ、人間は生かしておく価値がある」と停戦を求める選択を進言するシーンがある。しかし、そのチャンスは状況を知らなかった兵士がゾォーダの息子を殺してしまうことによって潰えてしまった。つまり、人類がもっと最初に「愛とはなんであるか」を提示できていれば回避できた未来があった。しかし、そのチャンスを台無しにし、物語は破滅へと向かって行く。最終決戦でふたりの戦士が特攻する。しかし、彼は言った。「俺は古代と出会って幸福だった。だから、そのぶん不幸にならなければならない。人生はままならないから。しかし、最後がどうであれ、幸福な記憶があれば人はどんなことだってできるのだ」と言って、最期を迎える。この作品では、「生きろ。最後まで生き抜け」と力強いメッセージが提示される。なのに、最期はみんな死んでいく。その姿に絶望し、波動砲の引き金を引き続けた自分に絶望し、選択をしなかった自分に絶望し、愛する人を守れなかったことに絶望して古代は特攻したのだ。しかし、テレザートの導きにより、高次元宇宙に導かれた古代はあなたはこれからどんな未来も選択できる。戦わないという未来もあった。和平交渉を結べる未来もあった。みんなが死なない未来もあった。だけど、すべて選べなかった。古代は絶望し、雪の呼びかけにも答えず、伸ばされた手をつかもうとはしない。だけど、一つの小さな手が彼の手をつかむ。それはおそらく未来に生まれてくる、雪と古代の子供。その手にひかれて、彼は地球に戻ってくる。彼は最後にこう締めくくる。人はこれからも戦争を続けていくかもしれない。だけど、そのときには、愛を信じて、人の縁を信じて、戦わない道を選べる強さを人類は手に入れなければならないのだ、と。彼を絶望から救ったのは、やはり愛だった。そして人類を戦いから遠ざけるためにも愛が必要なのだ。

三つ目、宇宙とは何か。すでに触れているが、古代は最後に高次元宇宙に到達する。そこではすべての運命を読み取り、選ぶことができる。しかし、現実とは隔離されているため、テレザートはヤマトを導くことはできても手出しはできなかった。そして、そこには今までになくなったすべての人がいる。つまり、天国だ。高次元宇宙では、何本もの運命の線がらせんのように渦巻き、世界樹をなしている。そして現実の人々を導いていくのだ。最後のモノローグで、こんなことが語られる。「宇宙。そこには太陽系以外にも様々な惑星、銀河が存在し、消滅しては生まれてくる。だから、生命の糸は途絶えない。そして人の縁も消滅しない」

この作品は、過酷で残酷で、悲惨な物語かもしれない。見るのがつらくなるくらいに。そこに描かれているのは目の逸らしようのない現実だった。人は生まれてからずっと戦争を続けている。紀元前から、2020年まで。そして、たぶんこれからも。現実はままならない。いつなにが起こるかもしれない。2020年に驚異的な殺人ウイルスが蔓延するなんて誰が想像したか。当然、愛する人を失う。だけど、僕たちの心の中には幸福だった記憶もある。そのぶんだけ、不幸も背負わなければならない。それは、少しだけ皮肉だ。だけど、人はたった一度の言葉で、行動で、ああ、自分は生きてきた価値があったと感動できる。これからも生きていけると思える。そして、すべての人類は縁で、見えない糸でひとつに結ばれている。この映画で描きたかったことは、どんな人だろうと、人種も国籍も性別も超えて、わかりあえる。戦争を止められる、ということなのだ。それが、福井晴敏が描いた理想であり、わたしたちへのメッセージだ。未来は、選び取れる。誰かを犠牲に、ではなく、すべての人類を救済する選択肢を必死に探せ。彼はそう言っている。