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映画評論-「ファーストマン」

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この映画はアポロ11号計画で人類ではじめて月に降り立ったニール・アームストロングの伝記である。

ニールはいずれの伝記映画でも英雄視されて描かれることが多く、どの映画でもニールのパーソナルな部分は置き去りにされている感があった。しかし、この映画は違う。ニールは繊細で、より家族思いの、一人の父親としての一面が描かれている。

 

ニールは小さな娘、カレンを小児がんで亡くしている。そして、月面に着陸したとき、まっさきに思い浮かべるのがカレンと家族で遊んでいた時の日々なのだ。月面の何もない大地に、草原で遊ぶ家族たちの姿が重なる。彼にとって月面へ着陸することはひとつの「任務」でしかなかった。

 

この映画ではいかにアポロ計画がずさんであったかが描かれている。アポロ計画の前にジェミニ計画というものがあり、そこでも多数の死者を出し、アポロ一号が一番悲惨で、発射する前に火災が発生し、一瞬にしてパイロットは焼け焦げた。ニールは仲間たちが死んでいく様を何度も見てきた。その目は常に月に向けられていたが、その感覚は、その葬列に並ぶのは次は自分ではなかろうか、とい諦念であったように思う。だから、彼は世間の評価など気にもせず、ただ死んでいった仲間のために月に行ったのだ。それはある種、義務感のようなもので、これ以上死者を出したくない、アポロ計画をこれで終わりにする、という決意だった。

 

彼が月面に降り立った時、その表情は宇宙服に包まれて見えない。だが、ワンカットだけ彼の表情が見えるシーンがある。それは月へ持ってきた唯一の品、亡くなった娘カレンのブレスレットだった。それを月面へ送り出し、そのときの表情は、彼は泣いている。それは亡き娘への罪滅ぼしのようにも見えるし、約束を果たすため、ただそのためだけに月面へ行ったのだ、という風にも見える。

 

この映画ではニールは一人のパパとしての側面が強く描かれており、彼が普通のどこにでもいる家族思いのパパであり、仲間が死んでいく中、家族の思いも錯綜し、どんどん関係性は悪化していく。折しもアポロ計画は税金の無駄遣いであるという抗議デモが活発化した時代であり、家族もそれに巻き込まれていく。ニールもアポロ計画に必死でまるで取りつかれたかのように、次に死ぬのは自分かもしれないと思いながら、そこから逃げるように仕事に打ち込む。そこで家族とニールの思いはすれ違い始めてしまう。

 

しかし、やはり、彼にとっては家族こそが全てではなかったかと思ってしまう。カレンのブレスレットを月に葬ったこともそうだし、彼は栄誉など求めていなかった。ただ余命宣告を待つような人生にうんざりして、そこから早く抜け出したかっただけだ。何度も月を見上げるニールの姿が映される。その表情は、睨みつけるようで、敵意すら感じるほどで、しかし、絶対月へ行って生還する、そして平穏な暮らしを取り戻すという決意に満ちていた。

 

決してニールは英雄なんかではなかった。どこにでもいる普通のパパだった。だが、待ち受けていた運命が過酷だっただけだ。それはこの映画がニールが地球に帰還し、妻と再会する場面で終わってしまうことにも表れている。彼にとってはそれで終わりなのだ。その後の英雄扱いの話は余談でしかなく、そうして平穏な生活を手にすることこそが彼の望みだった。そしてそれはかなえられた。そこには不屈の努力があり、運命に立ち向かう姿も描かれているが、常に彼は繊細で気弱そうな表情を浮かべていた。我々はニールという人物を過大評価しすぎていたのかもしれない。そのパーソナルな部分に目を向けてこなかった。結局、この映画は一言でいえば家族の話なのだ。月面は彼ら家族が待ち望んだ場所だった。そしてその約束を果たす。彼にとって月への執着は、すべて家族のためだったのかもしれない。